二河橋
二河橋(にこうばし)は、広島市呉市中心部の二河川に架かる道路橋である。元々は呉市電が通っていた併用橋であった。
二河橋 | |
---|---|
基本情報 | |
所在地 |
広島県呉市 左岸:西中央 - 右岸:三条 |
交差物件 | 二級河川二河川水系二河川 |
座標 | 北緯34度14分54.3秒 東経132度33分23.4秒 / 北緯34.248417度 東経132.556500度 |
関連項目 | |
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式 |
諸元
編集括弧内は戦前に発行された内務省土木研究所編『本邦道路橋輯覧』[1]によるデータ、つまり竣工当時のもの。
歴史
編集呉は1889年(明治22年)に呉鎮守府開庁、1903年(明治36年)呉海軍工廠が設立される[5]と、西日本有数の軍港として発展していった。また1902年(明治35年)に市制施行し呉市が誕生している[5]。
1908年(明治41年)、こうした状況の中で市中心部の主要道路の木橋として「二河橋」が架橋される[2]。翌1909年(明治42年)県内初の路面電車である呉市電が全面開通し[5]、この橋の上を路面電車が通る併用橋となった[2]。なお、橋竣工に際し、路面電車が通る前提で架けられたどうかは不明である。この木橋時代の二河橋の様子が撮影された戦前の絵葉書があり、現在流通している呉市電の資料にも掲載されている。この時の木橋は1929年当時で橋長15間(27.3m)幅員10間(18.2m)[6]。ただ交通の往来の激しい幹線道路であったため老朽化の進行も早く補修などの必要性に迫られていたが、橋を管理する県はそれを後回しにしていたため、木橋での晩年になると一部で腐食が目立つようになった[6]。
1932年(昭和7年)、鉄筋コンクリート橋に架け替えられた[2]。総工事費は当時のお金で77,820円[1]。これが現在も残っている二河橋である。なお、竣工当時1935年(昭和10年)発行の絵葉書『呉名勝』シリーズに当時の様子が撮影されている[2]。戦前は鋼製の照明灯や欄干で飾られていたが、戦中の金属類回収令に伴い撤去されたとされている[2]。1945年(昭和20年)呉軍港空襲を始めとする市街地への空襲に遭遇している[5]が、その時の被害状況は不明。なお、第一復員省『全国主要都市戦災概況図』にはこの橋の被害はなかったと記載されている。
戦後も補修されながら現在も利用されている。1967年(昭和42年)呉市電が廃止となり[5]道路橋となった。
2012年(平成24年)市政110周年記念事業「地域で眠るお宝再生・伝承事業」の一環として、撤去されていた照明灯を復元するなどの工事が行われた[2]。その復元工事の際に廃止となった呉市電のレールが発掘された。
ギャラリー
編集脚注
編集- ^ a b 内務省, p. 141.
- ^ a b c d e f g h i “二河橋を戦前の姿に復元 呉”. 中国新聞 (2013年3月24日). 2013年3月26日閲覧。
- ^ “都市再生整備計画 呉中央地区” (PDF). 呉市 (2012年11月). 2013年3月26日閲覧。
- ^ “(2800) /34_hiroshima.htm 広島県”. 土木学会土木史研究委員会 (2013年). 2013年3月26日閲覧。
- ^ a b c d e “呉市の歴史”. 呉市. 2010年3月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年3月26日閲覧。
- ^ a b 「地方通信」(PDF)『道路の改良』第11巻第8号、土木学会、1929年8月、2013年12月4日閲覧。
参考資料
編集- 『本邦道路橋輯覧 第3輯 鐵筋コンクリート突桁式及連続桁橋』(PDF)内務省土木試験所(原著1939年) 。2013年3月26日閲覧。
- 二河橋 - 東北芸術工科大学。戦前の絵葉書が数枚公開されている。