久松定謨
日本の陸軍軍人
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久松 定謨(ひさまつ さだこと、慶応3年9月9日(1867年10月6日) - 昭和18年(1943年)2月19日)は、日本の陸軍軍人、華族(伯爵)。旧伊予松山藩主久松家の当主で、歩兵第1旅団長・歩兵第5旅団長を歴任し、階級は陸軍中将。位階勲等は正二位・勲一等。
久松 定謨 | |
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生誕 | 1867年10月6日 |
死没 | 1943年2月19日(75歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
最終階級 | 陸軍中将 |
戦闘 | 台湾征討 |
旧名は鋹三郎。妻の貞子は島津忠義公爵の娘。二男の定武は貴族院議員・参議院議員を経て昭和26年から愛媛県知事を5期20年務めた。次男の定孝は宮内庁侍従職。孫(定武の子)の定成は元愛媛大学農学部教授で靖国神社崇敬奉賛会会長。
経歴
編集- 慶応3年(1867年)伊予松山藩主家の分家(松平定実系)である旗本・松平勝実の三男として生まれる。母は池田長休の娘。
- 明治5年(1872年)本家の当主である伊予松山藩知事久松定昭が逝去し、その遺言によって定昭の養子となり、本家を継ぐ。
- 明治15(1882年)元服、従五位に叙任。
- 明治16年(1883年)11月、フランスに留学する。
- 明治17年(1884年)7月7日、伯爵を綬爵し、華族となる[1]。この時の位階は従五位。
- 明治20年(1887年)10月、フランスのサンシール陸軍士官学校に入校する[2]。
- 明治22年(1889年)8月、サンシール陸軍士官学校歩兵科を卒業、大日本帝国陸軍歩兵少尉に任官。久松は日本の陸軍士官学校は卒業していないが、陸軍人事上は士官生徒第11期(陸士旧11期)相当と扱われ、菊池慎之助・奈良武次・西川虎次郎が同期生となる。
- 明治23年(1890年)私費留学としてフランス陸軍のツール歩兵第66連隊で隊附勤務。
- 明治24年(1891年)私費留学を終えて12月に帰国し、近衛歩兵第2連隊附。
- 明治28年(1895年)
- 明治29年(1896年)
- 明治30年(1897年)
- 明治32年(1899年)正四位に昇叙する。
- 明治35年(1902年)
- 明治36年(1903年)11月、少佐進級と共に正式な駐在武官に昇格する。
- 明治39年(1906年)
- 1月、参謀本部附仰付。
- 8月、帰国する。この年、従三位に昇叙。
- 明治40年(1907年)
- 明治44年(1911年)9月6日、大佐に進級し歩兵第3連隊長。
- 大正3年(1914年)、正三位に昇叙。5月11日から近衛歩兵第1連隊長。
- 大正5年(1916年)8月18日、陸軍少将に進級し歩兵第5旅団長。
- 大正6年(1917年)8月6日、歩兵第1旅団長。
- 大正9年(1920年)
- 8月10日、陸軍中将に進級すると同時に待命。
- 12月1日、予備役編入。
- 大正13年(1924年)、従二位に昇叙。
- 昭和11年(1936年)、正二位に進む。
- 昭和18年(1943年)2月19日、薨去。墓所は大林寺。
家族
編集栄典
編集- 位階
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
脚注
編集- ^ 『官報』第307号、明治17年7月8日。
- ^ この際、補導役として旧松山藩士の子である秋山好古騎兵大尉(当時)が渡仏している。
- ^ 【昭和天皇の87年】幼少期から抜群だった記憶力 弟思いの性格も産経新聞、2018.8.11
- ^ 久松定謨『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 『官報』第3746号「叙任及辞令」1895年12月21日。
- ^ 『官報』第7046号「叙任及辞令」1906年12月22日。
- ^ 『官報』第724号「叙任及辞令」1914年12月29日。
- ^ 『太政官日誌』明治6年、第157号
- ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
- ^ 『官報』第3379号「叙任及辞令」1894年10月1日。
関連項目
編集日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
伯爵 (松山)久松家初代 1884年 - 1943年 |
次代 久松定武 |
当主 | ||
先代 久松定昭 |
旧伊予松山藩久松家 1872年 - 1943年 |
次代 久松定武 |