久世広誉
久世 広誉(くぜ ひろやす)は、江戸時代中期から後期にかけての下総国関宿藩主。関宿藩久世家5代。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
---|---|
生誕 | 寛延4年2月29日(1751年3月26日) |
死没 | 文政4年3月8日(1821年4月10日) |
改名 | 勝之助(幼名)、広敦(初名)、広誉 |
戒名 | 隆光院殿昌徳日統 |
墓所 | 東京都豊島区巣鴨の本妙寺 |
官位 | 従五位下隠岐守、大和守、従四位下 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 下総関宿藩主 |
氏族 | 久世氏 |
父母 | 父:久世広明、母:岡部長著の娘 |
兄弟 |
広誉、広備、長谷川勝孚、土井利豊、広才、鈴木重逵、松平広徳、広侶、 久世広楽正室、満喜子、久世広孝正室ら |
妻 |
正室:松平武元の7女・泰 側室:道樹院 |
子 |
綏之、土井利器、秋田長季正室、安藤信馨正室、伊保子ら 養子:広運 |
来歴
編集寛延4年(1751年)、先代藩主久世広明の長男として生まれる。明和2年(1765年)6月1日、10代将軍徳川家治に拝謁する。同年12月18日に従五位下隠岐守。明和6年10月1日、雁間詰めを命じられる。天明5年(1785年)3月10日、父広明の死去により遺領を継いだ。同年8月15日、初めてお国入りする許可を得る。天明7年(1787年)10月28日、相模国などの領地を常陸国内などに移される。
寛政7年(1795年)、諱を広敦から広誉に改め、3月13日に名乗りを大和守とする。文化7年(1810年)末に従四位下に陞叙。文化14年(1817年)11月7日、病気を理由に家督を嫡孫で養子の広運に譲って隠居する。文政4年(1821年)3月に死去した。享年71。
系譜
編集父母
正室
- 泰 ー 松平武元の七女
側室
- 道樹院
子女
養子
脚注
編集