丹羽氏中
丹羽 氏中(にわ うじのり)は、江戸時代後期の大名。播磨国三草藩の第6代(最後)の藩主。氏次系丹羽家12代。
丹羽氏中 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 天保7年2月18日(1836年4月3日) |
死没 | 明治17年(1884年)4月21日 |
改名 | 西之助(幼名)、氏中 |
別名 | 勘助(通称) |
戒名 | 大雄院殿鉄心全柱大居士 |
墓所 | 東京都港区西麻布の長谷寺 |
官位 | 従五位下・長門守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家定→家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 播磨三草藩主 |
氏族 | 一色丹羽氏 |
父母 |
父:丹羽氏謙、母:米 養父:丹羽氏賢 |
兄弟 | 福之助、玉之丞、氏中、峯(森川俊迪の妻)、氏脩 |
妻 | 正室:朔(丹羽氏賢の娘) |
子 | 男、男、氏厚、寿々、光丸、男、鏜三郎、駒、氏正 |
略歴
編集天保7年(1836年)2月18日、第5代藩主・丹羽氏賢の弟・丹羽氏謙の三男として生まれる。嘉永6年(1853年)3月25日、伯父・氏賢の養子となる。同年10月15日、将軍徳川家定に拝謁する。同年12月8日(1854年)、氏賢の隠居により家督を継いだ。同年12月16日、従五位下・長門守に叙任する。
文久3年(1863年)9月10日、大番頭に就任する。慶応3年3月1日、大番頭を解任される。慶応4年(1868年)2月26日、新政府に勤王誓書を提出、3月22日上洛し、恭順の姿勢を示す。戊辰戦争では新政府に軍資金を提供するなどして協力した。明治2年(1869年)6月23日の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官される。明治17年(1884年)4月21日に死去した。享年49。墓所は東京都港区西麻布の長谷寺。
系譜
編集- 父:丹羽氏謙
- 母:米
- 養父:丹羽氏賢(1812年 - 1854年)
- 兄:福之助(1832年 - 1833年)
- 兄:玉之丞(1833年 - 1836年)
- 妹:峯(1839年 - 1862年)- 森川俊迪の妻
- 弟:丹羽氏脩(1842年 - ?)
- 正室:朔(1833年 - ?)- 丹羽氏賢の娘
当主 | ||
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先代 丹羽氏賢 |
三草藩丹羽家 1854年 - 1884年 |
次代 丹羽氏厚 |