丸山昭
丸山 昭(まるやま あきら、1930年11月14日[1] - 2016年12月15日[2])は、日本の漫画編集者。『少女クラブ』編集長、講談社取締役を務めた。山梨県甲府市出身。学習院大学文学部哲学科卒業。
1950年代から1960年代にかけて、手塚治虫担当の編集者を務めた。初期のトキワ荘に住む漫画家を発掘、担当を務めて、数々の新人を育て上げた編集者でもある[3]。藤子不二雄Aの自伝漫画『まんが道』にも「編集長の丸池」として登場する。
来歴
編集1953年(昭和28年)、大日本雄弁会講談社(現・講談社)に入社。1954年(昭和29年)、『少女クラブ』編集部配属となり、当時「リボンの騎士」を連載していた手塚治虫の担当となり、以後、手塚番を6年務めた[7]。
1955年(昭和30年)8月、手塚治虫を訪ねてきた石ノ森章太郎(当時は石森章太郎)、赤塚不二夫、長谷邦夫に偶然出会う。後に石ノ森、赤塚担当となり、トキワ荘に住む漫画家達との交流が始まる。このころ、水野英子の投稿作に注目し、後にトキワ荘に水野を呼び寄せ、育て上げる。
1958年(昭和33年)、『ぼくら』編集部に異動。翌1959年(昭和34年)には、『少女クラブ』編集長となる。
1967年(昭和42年)、講談社フェーマススクールズの設立に参加し、同社の取締役となる。
1981年(昭和56年)1月13日、手塚治虫が中心になり、トキワ荘のかつての居住者らが集まりトキワ荘の同窓会(「同荘会」と呼称[8])が開かれ、漫画家以外では唯一の参加者となる。その模様はNHK特集『わが青春のトキワ荘~現代マンガ家立志伝~』として同年5月25日に放送されたが、丸山は映っていない[9]。
1998年(平成10年)、講談社を退社。
2001年(平成13年)、トキワ荘グループの漫画家を育てた功績に対して、第5回手塚治虫文化賞特別賞が授与された[10]。
2002年(平成14年)、「私の八月十五日」の会に参加する。
2000年代後半には、かつての漫画編集者を取材し、江東区森下文化センターで元編集者や漫画家を招いて講演会を開いて、現場の記録を残す活動をおこなっていた[11]。
人物像
編集- 漫画家の水野英子は、1970年代に現場のことを理解していない編集者が多く、原稿がゴミのように捨てられるケースが多い中、丸山はきちんと原稿を戻してくれたと語っている[12]。
関係する漫画家
編集著書
編集脚注
編集- ^ 『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.291
- ^ a b 丸山昭氏死去…赤塚不二夫や石ノ森章太郎育てる 読売オンライン 2017年2月7日付
- ^ 武居俊樹『赤塚不二夫のことを書いたのだ』文藝春秋、2005年、p.97
- ^ 『赤塚不二夫のことを書いたのだ』p.102
- ^ 長谷邦夫『漫画に愛を叫んだ男たち』清流出版、2004年、pp.52-58
- ^ 長谷邦夫『マンガ編集者狂笑録』水声社、2008年、p.175
- ^ 丸山昭『まんがのカンヅメ 手塚治虫とトキワ荘の仲間たち』ほるぷ出版、1993年、p.97
- ^ 伊吹隼人『「トキワ荘」無頼派 漫画家・森安なおや伝』社会評論社、2010年、p.99
- ^ 『まんがのカンヅメ』p.112
- ^ 第5回手塚治虫文化賞特別賞 手塚治虫文化賞公式ページ(asahi.com内)
- ^ 夏目房之介「編集者の役割」『マンガ学入門』夏目房之介、竹内オサム編著、ミネルヴァ書房、2009年、p.145
- ^ 時代の証言者 水野英子(29)『読売新聞』2024年(令和6年3月29日朝刊p.12