中野登美雄
中野 登美雄(なかの とみお、1891年(明治24年)7月13日 - 1948年(昭和23年)5月21日)は、日本の法学者、早稲田大学第5代総長、立教大学元教授。専門は公法学。
人物・来歴
編集1891年7月13日、北海道札幌市に遠藤俊の五男として生まれ、後に中野家の養子となる[1]。
1913年6月、早稲田大学高等予科を、1916年6月、早稲田大学大学部政治経済科を卒業し、同年9月、早稲田大学研究科に入学する。副島義一、中村進午の下で国法学、国際法学を専攻する[1]。
1918年9月、アメリカ合衆国に留学し、シカゴ大学で語学研修等を受けた後、1919年10月から1922年6月までジョンズ・ホプキンズ大学に在学し、ウェステル・ウィロビー(英語: Westel W. Willoughby)の下で政治学、公法学を学ぶ。1922年6月、Ph.D.の学位論文『命令論』を提出し、大学出版部から出版される[1]。アメリカでの留学の後にヨーロッパに渡り、1922年10月からドイツのハイデルベルク大学においてはリチャード・アンシュッツ(英語: Richard Anschütz)の下で、1923年5月から フランスのソルボンヌ大学においてはガストン・ジェーズ(英語: Gaston Jèze)の下で研究に従事する[2]。
1923年9年に帰国して早稲田大学の助教授となり、1924年10月に教授となる[2]。1936年3月19日付で、論文「統帥権の独立」が学位授与の認可を受ける[3][注釈 1]。1927年2月から1941年3月まで、政治経済学部科教務主任となる[5]。立教大学経済学部の教授も務めた[6]。1942年10月から1944年9月まで、政治経済学部長となる。また、1944年3月からは常務理事を兼務する[5]。
1944年8月22日、早稲田大学総長である田中穂積が逝去したことにより、同年10月より早稲田大学総長となる[7]。1946年1月24日、総長の辞職を申し出て、翌日に理事会の承認を受ける[8]。
家族
編集著作
編集単著
編集- The ordinance power of the Japanese emperor. Johns Hopkins Press. (1923)
- 『国法及び国法史の研究』敬文堂書店、1929年6月。
- 『法律綱要 公法編』雄風館書房〈現代公民講座 4〉、1932年2月。
- 『統帥権の独立』有斐閣、1934年4月。
- 『統帥権の独立』原書房〈明治百年史叢書 第214巻〉、1973年9月。
- 『憲法学』早稲田大学出版部、1937年2月。
- 『憲法講義 その1』早稲田大学出版部、1938年2月。
- 『戦時の政治と公法』東洋経済出版部、1940年5月。
- 『日本翼賛体制』新公論社、1941年2月。
- 『戦時の政治と公法』東洋経済新報社出版部、1943年12月。
- 『国防体制法の研究』理想社、1945年7月。
- 『国防体制法の研究』原書房〈明治百年史叢書 第292巻〉、1979年7月。
訳著
編集- ハンス・ケルゼン 著、中野登美雄 訳『国家原理提要』巌松堂書店、1927年10月。
論文
編集- 「仏国憲法ニ於ケル統帥権ト国務大臣ノ責任」『早稲田法学』第4号、早稲田大学法学会、1925年4月4日、1-53頁、NAID 120000793825。
- 「仏国憲法ニ於ケル統帥権ト国務大臣ノ責任(ニ)」『早稲田法学』第5号、早稲田大学法学会、1925年12月20日、54-87頁、NAID 120000793850。
- 「「ケルゼン」著国家原理提要」『早稲田法学』第7号、早稲田大学法学会、1927年7月10日、1-118頁、NAID 120000787909。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 「校報 学位授与」『早稲田学報』第494巻、早稲田大学校友会、1936年4月、12-21頁。
- 「中野登美雄氏」『早稲田学園彙報』第2巻第6号、早稲田大学教務部、1948年6月、2頁。
- 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、1-781頁。NDLJP:1276156/530。
- 清水望「中野登美雄(一八九一年―一九四八年) ――その生涯と業績――」『早稲田大学史記要』第16巻、早稲田大学大学史編纂所、1983年10月、1-22頁。
- 檜皮瑞樹「二〇一四年度秋季企画展「十五年戦争と早稲田」」『早稲田大学史記要』第46巻、早稲田大学大学史資料センター、2015年2月、151-176頁。
外部リンク
編集- 『中野登美雄』 - コトバンク
- 『中野 登美雄』 - コトバンク
- 早稲田人名データベース 中野登美雄
- 早稲田出身の学長・総長【第3回】 - 早稲田ウィークリー