中村桂林
幕末の日本の医師、漢詩人
来歴
編集常陸国大生郷(現・茨城県常総市)出身。増田源七の子として生まれる。
漢詩人大沼沈山の門人となる。1849年(嘉永2年)に、桂林増田存の名で格非秋葉誠らと漢詩集『飯沼詩鈔』を著した。
のち、縁あって下総国関宿城の大手門付近で開業する中村養碩{ 美濃国大井の和田家の出で、生虫学を専門とした医師。1844年(天保15年)に官医を拝命し、1853年没 }の養子となり跡を継いだ。
永井荷風の著書『下谷叢話』の中では、荷風の親戚にあたる大沼枕山が、梅癡上人を訪ねる下りに、以下の記述がある[1]。
枕山は梅痴の書簡に言ってあるように、七月秋に入るを待ち、北総飯沼の寺に赴いた。『枕山詩鈔』丁未の集に、「梅痴上人ヲ訪フ途中ノ口占こうせん、門生桂林に示ス。」と題して、「蕭然野服便登程。一路看山不世情。応似淵明向廬岳。肩輿此添一門生。」〔蕭然野服便チ程ニ登ル/一路山ヲ看レバ世情ニアラズ/応ニ似ルベシ淵明ノ廬岳ニ向フニ/肩輿此ニ一門生ヲ添フ〕という絶句がある。この一門生は嘉永二年の冬に『飯沼詩鈔』一巻を編輯刊刻した増田存、号を桂林といった飯沼の人であろう。 — 永井荷風、下谷叢話