中御門宣俊
南北朝時代から室町時代初期の公卿。中御門家6代。従二位・権中納言。子に房恵(東大寺、権僧正)、房明
中御門 宣俊(なかのみかど のぶとし)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての公卿。権中納言・中御門宣方の子。官位は従二位・権中納言。
時代 | 南北朝時代 - 室町時代初期 |
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生誕 | 応安4年/建徳2年(1371年) |
死没 | 応永21年9月13日(1414年10月26日) |
官位 | 従二位、権中納言 |
主君 | 後円融天皇→後小松天皇→称光天皇 |
氏族 | 中御門家 |
父母 | 父:中御門宣方 |
兄弟 | 宣俊、宣守 |
子 | 宣輔、房恵、房明、小林寺殿 |
経歴
編集応安4年/建徳2年(1371年)に権中納言・中御門宣方の嫡子として誕生。永和3年/天授3年(1377年)に正五位下・兵部権大輔に叙任され、まもなくして右兵衛佐に転ずる。
嘉慶2年/元中5年12月(1388年1月)に右少弁に任ぜられ、五位蔵人に補任される。明徳元年/元中7年12月(1391年1月)には左少弁に進み、応永元年12月(1395年1月)に右中弁と、弁官を務めつつ官位を進める。応永2年(1395年)右宮城使を兼ね、左中弁に昇任。応永3年(1396年)に従四位下・左宮城使に叙任された。
また、この間の明徳3年(1392年)閏10月5日、三種の神器が南山から京都に移され、南北朝が合体した折に催された神楽の奉行を、3代将軍・足利義満より命ぜられている。
応永4年(1397年)右大弁、応永8年(1401年)左大弁に昇進。この間、応永5年(1398年)には関白・二条師嗣の執事に任命される。応永9年(1402年)に蔵人頭に補任され、応永11年12月(1405年1月)参議となり公卿に列す。応永12年(1406年)には従三位・播磨権守に叙任。応永17年(1410年)に正三位に叙せられ、応永18年(1411年)伊予権守を兼任。応永20年(1413年)従二位に至った。
応永21年(1414年)9月6日、権中納言に任ぜられるが、同年9月13日に薨去。享年44。
官歴
編集※以下、註釈の無いものは『公卿補任』の記載に従う。
- 永和3年/天授3年(1377年)
- 正月5日:正五位下に叙す。
- 3月23日:兵部権大輔に任ず。
- -年(13--年)-月-日:右兵衛佐に任ず。
- 嘉慶2年/元中5年(1388年)
- 明徳元年/元中7年12月24日(1391年1月29日):左少弁に転ず。
- 応永元年12月19日(1395年1月10日):右中弁に転ず。
- 応永2年(1395年)
- 2月-日:右宮城使に任ず。
- 6月-日:左中弁に転ず。
- 応永3年(1396年)
- 3月-日:左宮城使に転ず。
- 8月25日:従四位下に叙す。
- 12月-日:従四位上に叙す[1]。
- 応永4年(1397年)3月29日:右大弁に転ず。
- 応永5年(1398年)3月9日:二条師嗣の執事に補す[2]。
- 応永-年(1---年)-月-日:正四位下に叙す。
- 応永-年(1---年)-月-日:正四位上に叙す。
- 応永8年(1401年)3月-日:左大弁に転ず。
- 応永9年(1402年)7月22日:蔵人頭に補す。
- 応永11年12月17日(1405年1月17日):参議に任ず。
- 応永12年(1405年)
- 正月6日:従三位に叙す。
- 3月17日:播磨権守を兼ぬ。
- 応永17年(1410年)正月5日:正三位に叙す。
- 応永18年(1411年)正月28日:伊予権守を兼ぬ。
- 応永20年(1413年)正月-年:従二位に叙す。
- 応永21年(1414年)9月6日:権中納言に任ず。
系譜
編集脚注
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