中塚 響也(なかつか きょうや、1888年(明治21年)8月31日[1] - 1945年(昭和20年)5月28日[1])は日本の俳人。本名は謹太郎[1]。
岡山県浅口郡玉島町(現・岡山県倉敷市)に生まれる。中塚一碧楼の妹と結婚。河東碧梧桐に師事。「乱礁会」「水曜会」を結成。義兄・一碧楼の「自選俳句」に参加。「海紅」に参加したが俳壇を離れた。1935年、定型俳誌「渚」を発刊したが1940年に廃刊となった[1]。
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