中井 太一郎(なかい たいちろう、1830年4月2日(天保元年3月10日[1])- 1913年大正2年)5月21日[2])は、幕末から明治時代の農地改革者、技術者

経歴・人物

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庄屋の子として伯耆国久米郡中河原村[3]鳥取県東伯郡小鴨村大字中河原を経て、現倉吉市中河原)に生まれる。9歳の頃に寺子屋で農業を学ぶ。後に耕地を所有し、1858年安政5年)に鳥取藩が執行した地方改革により、中庄屋に昇格した。

明治維新後、最高位の戸長及び地券の取調役となり、全国の稲作を巡回し農地改革の講演を行う。耕地は実子の中井益蔵に譲る。1884年(明治17年)、田植えの際、苗の間隔を一定にするため、田に目印をつけるための農具である田植え定規を発明。1892年(明治25年)には水田除草器械を考案し特許を取得するなど、日本における農地改革や普及に貢献した。なお、この器械は後に「太一車」と呼ばれ、全国に名を轟かせた。

その後、器械の発明だけでなく法律の制定や、農業改良に関する著書の刊行にも携わった。

著書

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主著

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  • 『大日本稲作要法』- 1888年(明治21年)刊行。

その他の著書

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  • 『稲作改良実験記』- 1883年(明治16年)刊行。
  • 『稲米撰種法』

栄典

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関連書籍

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脚注

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  1. ^ 『鳥取県百傑伝』144頁。
  2. ^ 『鳥取県百傑伝』149頁。
  3. ^ 「中河原〈倉吉市〉」『角川日本地名大辞典 31 鳥取県』547頁。

出典

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外部リンク

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