上杉憲賢
上杉 憲賢(うえすぎ のりかた)は、戦国時代の武将。深谷上杉家6代当主。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 永禄3年2月28日(1560年4月6日) |
別名 | 次郎、義竹軒、雲岑、静賢 |
戒名 | 義竹庵雲岑静賢大居士 |
墓所 | 深谷山永明寺高台院(埼玉県深谷市)[1][2] |
主君 | 山内上杉家 |
氏族 | 深谷上杉家 |
父母 | 父:上杉憲清 |
妻 | 高泰姫(法号:高泰院殿梅室元芳大姉)[3] |
子 |
憲盛、氏盛? 養子:氏賢(後北条氏。憲賢外孫) |
略歴
編集6代当主・上杉憲清の子として誕生した。現在の熊谷市久下にあった東竹院を再興した。
山内上杉家に属し、扇谷上杉家の滅亡後、武蔵国における上杉氏の勢力回復に努め、天文10年(1541年)に上野国新田金山城の横瀬泰繁を攻めた記録が残る。天文15年(1546年)、山内上杉家が河越城の戦いで敗れると北条氏康に誼を通じた。
家督は子・憲盛が継いだ。
脚注
編集- ^ 上杉憲賢の妻高泰姫によって中興開基された。夫妻の墓がある。
- ^ 深谷市教育委員会 編『目で見る深谷の歴史 : 市政二十五周年記念』1981年、45頁。doi:10.11501/9642335 。
- ^ 深谷市史編さん会 編『深谷市史 追補篇』1980年、970頁。doi:10.11501/9642085 。