米沢市上杉博物館
米沢市上杉博物館(よねざわしうえすぎはくぶつかん、Yonezawa city Uesugi Museum)は、山形県米沢市の市立博物館である。本項では、併設の置賜文化ホールについても記述する。
米沢市上杉博物館 Yonezawa City Uesugi Museum | |
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伝国の杜 (米沢市上杉博物館・置賜文化ホール) | |
施設情報 | |
前身 | 米沢市立上杉博物館 |
館長 | 曽根伸之[1] |
管理運営 | 公益財団法人米沢上杉文化振興財団(指定管理者)[2] |
建物設計 | 関・空間設計 |
延床面積 | 9,047.39㎡ |
開館 |
1967年(昭和42年)9月1日[3] ↓ 伝国の杜 2001年(平成13年)9月29日[2] |
所在地 |
〒992-0052 山形県米沢市丸の内1丁目2-1 |
位置 | 北緯37度54分27.1秒 東経140度6分23.98秒 / 北緯37.907528度 東経140.1066611度座標: 北緯37度54分27.1秒 東経140度6分23.98秒 / 北緯37.907528度 東経140.1066611度 |
外部リンク | 米沢市上杉博物館 |
プロジェクト:GLAM |
概要
編集1967年(昭和42年)9月1日に上杉神社の境内に米沢市立の博物館として開館した[3]。 米沢城跡の一角に所在した米沢工業高校の同市川井への新築移転に伴い、その跡地に、2001年(平成13年)9月、山形県が整備した「置賜文化ホール」と米沢市が整備した「米沢市上杉博物館」が合築され、高円宮も臨席の下、開館記念式典を挙行。「伝国の杜」がオープンした[4]。
伝国の杜は設計・監理を関・空間設計および山形県土木部建築住宅課営繕室が担い、施工は戸田建設・黒金建設工事共同企業体が手掛けた。2階建て。総工費は約75億円[4]。施設整備に当たっては、北正面に上杉神社を始めとする景観を楽しみながら各種イベント等に利用できるように広いひろばを配した。また、内部はひろばと平行しモールを介し博物館、ホール等、様々な施設機能が有機的に繋がるようにした[5]。
愛称の伝国の杜は、全国公募され、1544点の中から応募作「伝国の館」を最優秀作に選び、「館」を「杜」に補作して決定した。「伝国」は上杉治憲(鷹山)が家督を譲る際に著した藩主の心得書「伝国の辞」にちなんだものという[6]。
2014年9月、「父は鷹山を称賛していた」と発言していた駐日米大使であったキャロライン・ケネディが、県や市からの来訪の懇請に応え、米沢を訪問。その際、伝国の杜のギャラリーから、広場に集まった約3千人の聴衆を前に「今日は私が待ちに待った日。父は1人でも世の中に変化をもたらすことができる、やってみろといっていた。しかし鷹山ほどこのことを端的に言い表した人はいない。為せば成る、と」とスピーチした[7]。
米沢市上杉博物館
編集上杉鷹山等の上杉氏に関連する展示を中心に、伊達氏や市内の古墳に関する展示など江戸時代以前の展示もおこなっている。
指定文化財
編集国宝
編集重要文化財(国指定)
編集- 越後国頸城郡絵図・越後国瀬波郡絵図 2鋪(附:越後国絵図 1鋪)
- 長尾上杉氏印章(晴景、謙信、景勝所用)27顆(寄託品)
- 太刀 銘一(号姫鶴一文字)(重要文化財)
置賜文化ホール
編集ホールの客席数は500席。通常は音楽や演劇などをする舞台形式であるが、可動式能舞台が併設されていることが特色の一つとして挙げられる。これは通常、エントランスホールに展示している能舞台が空気浮上方式で移動する仕組みになっているもので、施設のイメージ向上ならびに有効利用に資するよう導入した[5][8]。
その他
編集近隣
編集出典
編集- ^ “伝国の杜サポーター通信”. 米沢市上杉博物館. 2024年10月6日閲覧。
- ^ a b “財団の概要”. 公益財団法人米沢上杉文化振興財団. 2016年2月23日閲覧。
- ^ a b 『山形県年鑑 1969年版』 山形新聞社、1969年1月20日。pp255
- ^ a b 「文化交流の拠点に 米沢の伝国の杜で開館式典 きょうオープン」『読売新聞』山形版 2001年9月29日
- ^ a b 『建築と社会』 2002年1月号
- ^ 「米沢の県立新文化施設 愛称は伝国の杜に」『読売新聞』山形版 2001年7月11日
- ^ 「ケネディ大使、父が称賛 鷹山の地へ 待望の米沢訪問」『朝日新聞』山形版 2014年9月28日
- ^ 「可動式の能舞台も 上杉博物館 伝国の杜 29日開館」『朝日新聞』山形版 2001年9月8日