三遊亭圓左
三遊亭 圓左(さんゆうてい えんさ)は落語の名跡。過去4代目まで存在しているが、現在は空位。
初代 | |
三遊亭圓朝一門定紋「高崎扇」 | |
本名 | 小泉 熊山 |
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別名 | 狸の圓左 |
生年月日 | 1853年 |
没年月日 | 1909年5月8日 |
出身地 | 日本・江戸 |
師匠 | 三遊亭圓朝 |
名跡 | 1.三遊亭鯉朝 (1871年 - 1876年) 2.三遊亭米朝 (1876年 - ?) 3.三遊亭飩朝 (? - 1885年) 4.初代三遊亭圓左 (1885年 - 1901年) 5.三代目三遊亭龍蝶 (1901年 - 1904年) 9.初代三遊亭圓左 (1904年 - 1909年) |
活動期間 | 1871年 - 1909年 |
活動内容 | 道具入りの百物語 新作落語 |
家族 | 二代目三遊亭圓左(実子) |
所属 | 三遊派 |
備考 | |
第一次落語研究会の発起人の一人 | |
初代 三遊亭 圓左(1853年(嘉永6年) - 1909年(明治42年)5月8日)は明治期の落語家。本名:小泉熊山。
風貌からあだ名を「狸の圓左」という。
来歴
編集江戸京橋生まれ、父は京橋や中橋で成田家仁作を名乗り幇間や落語・座興をしていた。はじめ鍼医を志し師匠に弟子入りしたが1年半ほどで師匠が死去し、流しの揉み師になるが根っからの落語が好きで1871年(明治4年)頃三遊亭圓朝門人となり三遊亭?理(鯉とも)朝、1876年(明治9年)頃三遊亭米朝、を経て、一時旅回りの役者の一座に加わり上州を巡ったこともあったが、復帰して三遊亭飩朝、1885年(明治18年)頃に三遊亭圓左を名乗る。
翌年、浅草並木の酒恵亭で真打披露となり、師のすすめで道具入りの百物語を演じた。1901年(明治34年)11月に兄弟子の4代目三遊亭圓生の引き立てで3代目?三遊亭龍蝶と名乗った時期もあったが、1903年(明治36年)または1904年(明治37年)頃に旧名の圓左に戻る。
晩年の1905年(明治38年)には「第一次落語研究会」の発起人の一人となる。地味な芸風で客の評判はよくなかったが、噺は巧く、楽屋内では高く評価されていた。「柳の馬場」「富久」「天災」「やかん」などを得意とし、とくに按摩の登場する噺は絶品であった。劇作家・益田太郎冠者と組んで新作にも手がけている。
後輩の指導にも力を入れ、3代目三遊亭圓馬は大きな薫陶を受けた一人である。
芸熱心で「毎日、方々歩いて、二軒三軒と人の家を訪問して、行った先で必ず噺をする。・・・一席やっちゃうと、『エエ、こういう噺も・・・』って、また一席演る。・・・そしてどうだこうだと言ってもらって、そこで自分でまた練りなおすんです。」
あるいは「ある日向島の料理屋からお座敷がかかった。行っておじぎをして、頭を上げたら、自分の倅が脇息にもたれて、芸者を二人ばかりわきへ置いている。『馬鹿野郎オッ』ってどなった。『どこの国におやじを余興に呼ぶやつがある。その銭ア誰が出すんだ。みんなおれが払うんだ。』っておこってから『せっかくきたんだから一席聞かせてやる』ってそこで噺をしたんですから・・・いかに噺が好きだったか・・・・そのくらいですからうまいのも当り前なんですよ。」という証言がある。(2つとも、6代目三遊亭圓生著 『寄席育ち』)
1909年(明治42年)5月7日、牛込亭という席で弟弟子の初代三遊亭圓右と余興に「茶番狂言」を演じた後、「綱上」を踊って夜に帰宅後、脳充血の発作で倒れ、翌朝急死。享年数え57歳。[1]
脚注
編集- ^ 古今東西落語家事典(諸芸懇話会・大阪芸能懇話会編) 平凡社刊