三吉広高
三吉 広高(みよし ひろたか、生年不詳 - 寛永11年10月18日(1634年12月8日))は、安土桃山時代から江戸時代の武将。備後国の三次盆地東方の比叡尾山城を本拠とする国人・三吉氏の当主。三吉隆亮の長男。通称は新兵衛。官位は安房守。
生涯
編集元亀4年(1573年)、父とともに毛利輝元との盟約の起誓文を交換した。
天正19年(1591年)、後見人である叔父の粟屋隆信を謀殺。同年、居城を比叡尾山城から比熊山城に移した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利輝元が周防国。長門国の二ヶ国に転封になると、所領を失った。京都で出家し、「荺斎」(きんさい、「きん」はくさかんむりに「均」)と号していたが[1]、広島藩藩主浅野長晟に迎えられて広島に住み、200石を領した。墓は三次市三次町にある松雲山西江寺の境内に現存している。