一牛斎歓仲
一牛斎歓仲(いちごさい よしなか)は、戦国時代から安土桃山時代の人物。豊臣秀吉の重臣[1]。名は能得(のうとく)ともいい、一牛斎または帥法印歡仲として数多くの書状に名を残している。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 |
一牛斎能得 通称:太宰師法印、師法印歓仲 |
主君 | 豊臣秀吉 |
略歴
編集豊臣家の家人[2]。前歴不明で帥法印に任じられていることから僧かそれに準じる[3]立場であったと思われるが、詳細不明。
天正10年(1582年)10月、姫路城の留守居を務めた[2]。
天正12年(1584年)11月20日付けの書状(安井文書)で、伊藤秀盛、蒔田久勝、石河光茂(加介)、小出秀政らととも連署して久寶寺の年貢の裁定を発給しており[4]、文章のなかで言及される寺沢広政を含めた6名は秀吉の初代側近六人衆とされる[5]。
人物
編集脚注
編集参考文献
編集- 小林清治『秀吉権力の形成―書札礼・禁制・城郭政策―』東京大学出版会、1997年、19頁。ISBN 9784130260596。
- 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年。ISBN 4404017529。
- 歴史人物辞典 一巻(1983、59p)[要追加記述]