一柳直家
一柳 直家(ひとつやなぎ なおいえ)は、江戸時代初期の大名。伊予国川之江藩主。播磨小野藩主一柳家初代[3]。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長4年(1599年) |
死没 | 寛永19年5月29日(1642年6月26日) |
改名 | 禅門(幼名)[1] |
諡号 | 自性院殿俊林宗逸大居士[2] |
墓所 | 東京都渋谷区広尾の祥雲寺 |
官位 | 従五位下美作守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光 |
藩 | 伊予川之江藩主 |
氏族 | 一柳氏 |
父母 | 父:一柳直盛 |
兄弟 | 本多忠朝正室、直重、直家、直頼、直良、直澄 |
妻 | 高倉永慶[注釈 1]娘 |
子 |
一柳直次正室 養子:直次 |
生涯
編集慶長4年(1599年)、一柳直盛の次男として伏見に生まれる[1]。母は稲葉氏[要出典][注釈 2]
慶長10年(1605年)、7歳の時に駿府で徳川家康に、江戸で徳川秀忠に、それぞれ拝謁[1]。以後、江戸で父の証人(人質)として暮らし、幕府から「旅資」を支給されている[1]。以後、徳川秀忠の上洛や、大坂の陣などに随行[1]。この間の慶長14年(1609年)、従五位下美作守に叙任している[1]。
父の直盛は大坂の陣で徳川方に与して戦功を挙げた[4]。寛永13年(1636年)6月1日に直盛は1万8000石余の加増を受けて伊予国西条に転封される[4]。領地は伊予国新居郡・宇摩郡・周敷郡ならびに播磨国加東郡で、石高は計6万8000石余であった[4]。このとき直家は徳川家光の命によって[4]加増分の中から播磨国加東郡内5000石を分け与えられた[4][1][注釈 3]。しかし同年8月19日、西条に向かう途上の大坂で直盛が死去した[4]。
同年11月、直盛の遺領6万3000石余は3人の子(直重、直家、直頼)で分割されることとなった。直家は父の遺領をのうち2万3600石を相続し[1]、さきに与えられていた5000石と合わせ、播磨国加東郡、伊予国宇摩郡・周敷郡の3郡で2万8600石の大名となった[1][5][注釈 4]。『愛媛県史』によれば川之江に入部した(川之江藩)[6][7][注釈 5]。翌寛永14年(1637年)に初の国入りが認められる[1]。
直家は宇摩郡川之江村の神ノ木(現在の愛媛県四国中央市川之江町)に陣屋(川之江陣屋)を置いた[10][注釈 6]。また、播磨国の分領支配の拠点として敷地陣屋(現在の小野市敷地町)を築いた[8]。
寛永19年(1642年)5月29日に死去、享年44[1]。参勤交代で江戸に上る途中に面疔を患い、江戸で急死したという[6][7]。麻布の祥雲寺[注釈 7]に葬られた[1]。
直家には娘しかいなかった[注釈 8]ため、親族にあたる小出吉親の次男・一柳直次を養子とし[注釈 9]、娘[注釈 10]と娶せて遺領を相続させようとした。『寛政譜』によれば、病が篤くなった時に相続を願い出たとされる[1](『愛媛県史』では跡目相続を願い出ていたものの幕府の許可がいまだ出ていなかったという説を載せる[6][7])。当時は末期養子がまだ許されていなかったため、寛永20年(1643年)に家督相続は認められたものの伊予国内の1万8600石が没収されることとなった[1][注釈 11]。これにより小野藩の所領は播磨国内の1万石のみとなった[1]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 大納言を務めた公家
- ^ 『寛政譜』では「某氏」[1]。
- ^ このため父の遺領が6万3000石とされる[1]。
- ^ 『愛媛県史』では播磨小野1万石と伊予宇摩郡・周敷郡で1万8600石(合計2万8600石)を領したとする[6]。
- ^ 『寛政重修諸家譜』では当初から播磨国小野に居したとある[1](小野藩)。『愛媛県史』では次代の直次が小野に陣屋を構えたとあり[6]、小野市側でも直次が承応2年(1653年)に小野陣屋を築いたとある[8]。『日本大百科全書(ニッポニカ)』では、直次が寛永20年(1643年)に相続を認められたことをもって小野藩の成立とする[9]。
- ^ 川之江町栄町に「一柳直家公陣屋跡」の碑がある[11]。「一柳陣屋門」と呼ばれる建築物が川之江八幡神社にあり(国登録文化財)、直家が建築した陣屋の表門を移築したものと伝えられている[12][13]。
- ^ のち渋谷に移転[1]。
- ^ 『寛政重修諸家譜』によれば、正室高倉氏との間に女子2人[1]。
- ^ 直次は、直家の弟である一柳直頼(小松藩主)の妻の弟にあたる[6][7]。
- ^ 『寛政譜』では姉妹のうち妹[1]。
- ^ 収公された伊予国内の領地は伊予松山藩の預かり地となり、管理のために川之江陣屋跡に川之江代官所が置かれた[7]。
出典
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『寛政重修諸家譜』巻第六百四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.157、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.157。
- ^ 一柳貞吉 1933, p. 47.
- ^ “一柳直家”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2021年9月19日閲覧。
- ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻第六百三、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.155、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.155。
- ^ “天領/愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)”. データベース『えひめの記憶』. 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月15日閲覧。
- ^ a b c d e f “ひ/愛媛県史 人物(平成元年2月28日発行)”. データベース『えひめの記憶』. 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月15日閲覧。
- ^ a b c d e “宇摩郡の天領/愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)”. データベース『えひめの記憶』. 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月15日閲覧。
- ^ a b 佐野充彦「「おの歴史散歩」vol.52 「城下町」への憧憬やまず」『広報おの』第657巻、小野市、2014年12月、34頁、2021年9月11日閲覧。
- ^ “小野藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2021年9月19日閲覧。
- ^ “陣屋町の形成/愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)”. データベース『えひめの記憶』. 愛媛県生涯学習センター. 2021年9月15日閲覧。
- ^ “「歴博まちあるき」を開催しました”. 紙のまち図書館 (2021年3月21日). 2021年9月19日閲覧。
- ^ “一柳陣屋門”. 文化遺産オンライン. 2021年9月19日閲覧。
- ^ “一柳陣屋門”. 四国中央市教育委員会. 2021年9月19日閲覧。
参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜』巻第六百四
- 『寛政重修諸家譜 第四輯』(国民図書、1923年) 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『新訂寛政重修諸家譜 第十』(八木書店、1965年)
- 一柳貞吉『一柳家史紀要』1933年 。