一条房冬

日本の戦国時代の大名・公家。土佐一条氏3代。一条房家の嫡男。正二位、左近衛大将、権中納言

一条 房冬(いちじょう ふさふゆ)は、戦国時代公家権大納言一条房家の長男。土佐国最南端の幡多郡を中心に領域支配を展開した「地域権力」土佐一条氏の2代目当主[1]

 
一条房冬
時代 戦国時代
生誕 明応7年(1498年
死没 天文10年11月6日1541年11月23日
戒名 円明院殿二品幕下明叟宗賢
官位 正二位権中納言左近衛大将
氏族 土佐一条氏
父母 父:一条房家、母:平松房冬の娘
兄弟 房冬房通、尊快、房忠教行兼朝、盛岳、教快、西園寺公宣室、津野基高室、町顕冬
正室:玉姫伏見宮邦高親王の娘)
側室:大内義興の娘、敷地藤安の娘
房基大内晴持、真海
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経歴

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明応7年(1498年一条房家の嫡男として誕生。永正7年(1510年元服し、従五位上侍従に叙任される。永正10年(1513年正五位下左近衛少将、永正14年(1517年従四位下、永正17年(1520年正四位下・左近衛中将と昇進し、大永元年(1521年従三位に叙せられて公卿に列した。

その後も、大永3年(1523年権中納言享禄3年(1530年正三位、享禄5年(1532年従二位と昇進を続け、天文4年(1535年)には左近衛大将を兼帯している。

天文8年(1539年)父・房家が死去すると正式に家督を継ぎ[1]、在国公家としては異例の正二位の位階を許された[2][1]。さらに伏見宮邦高親王の王女・玉姫を正室に迎えている[3][1]。また京都大徳寺の高僧・古岳宗亘に帰依し、禁裏との関係を深めようとしており[1]、大徳寺に集う大名や堺商人との人的関係を構築することにより、政治的・経済的利益を得ることが目的だったと指摘されている[1]

天文9年(1540年)家臣の讒言により傅役で土佐一条家の重臣だった敷地藤安を自害させたが、後に藤安の無実を知ると後悔したという。翌天文10年(1541年)11月6日に病没[1]享年44。最終官位は権中納言正二位。嫡男の房基が土佐一条氏の跡を継いだ。

官歴

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『諸家伝』による。

系譜

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注記のないものは『系図纂要』による。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 中脇 2017.
  2. ^ 『お湯殿の上の日記』
  3. ^ 『二水記』

参考文献

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  • 中脇聖「土佐一条房冬と禁裏・古岳(嶽)宗亘の関係をめぐって」(日本史史料研究会編『日本史のまめまめしい知識』第2巻、岩田書院、2017年)
  • 正宗敦夫編『諸家伝』日本古典全集刊行会、1940年
  • 近藤敏喬『宮廷公家系図集覧』東京堂出版、1994年