一式十糎自走砲 ホニII(いっしきじゅうせんちじそうほう -)は、第二次世界大戦時初期の大日本帝国陸軍自走砲。1944年(昭和19年)に対戦車自走砲に転用された。

一式十糎自走砲 ホニII
性能諸元
全長 5.52 m
全幅 2.33 m
全高 2.39 m
重量 16.3 t
懸架方式 平衡式連動懸架装置
速度 35 km/h
行動距離 200 km
主砲 九一式十糎榴弾砲×1
装甲 41mm
エンジン 三菱SA一二二〇〇VD
空冷V型12気筒ディーゼル
170 hp/2,000 rpm
乗員 5名
テンプレートを表示

概要

編集
 
一式十糎自走砲 ホニII

ホニIIホニII車)は、1941年(昭和16年)3月31日から研究が開始され、翌1942年(昭和17年)2月に九一式十糎榴弾砲をベースとする試作砲が完成した。製作は大阪陸軍造兵廠である。試作砲は発射試験を実施、砲架と托架が弱く、補強しなければならなかった。同年3月に補強を済ませ射撃試験を行ったが、一号装薬・増強装薬使用時に活塞桿室と活塞桿(駐退機にある、後座・復座のために滑動する、ピストンロッドと先端部)に不具合があり、改修。つづいて九七式中戦車 チハ(チハ車)の車体に搭載し400kmの運行試験を行った。運行中、砲と防盾を支持する小架に動揺が大きく、補強が必要と指摘された。後の試験でも砲が揺れ動いたと指摘されている(砲が揺れ動くとギアが痛み、正確な射撃が難しくなる)が、運動性と弾道性は良好だった。砲撃には二号装薬と九一式榴弾を用いた。

1942年6月に新設計の揺架を用いた結果、機能は良好だったため8月には一号装薬での試験を行い、若干の修正点はあるものの実用に達した。本車は同年に一式十糎自走砲として制式化された。1943年(昭和18年)には極低温時の作動確認のため、満州のハイラル付近で191kmを運行、92発の射撃試験を行っている。このときには-25度の寒さで駐退液の粘度が増したため、小架が破損した。運行は良好であった。

主砲は、高低射界(仰俯角)-15度~+25度、方向射界は左右22度、後座長590~620mm、最大射程9,000mであり、15.76kgの弾丸を初速454m/sで発射した。砲弾搭載量は16発である。車体床に九一式尖鋭弾16発を搭載し、薬筒は4発入りの薬筒箱を4つ車内に収めた。予備弾薬箱を車体後部上面に積載することもあった。九七式中戦車で車体前面に装備されていた九七式車載重機関銃は廃止されている。搭載砲と装甲厚の外は、一式七糎半自走砲 ホニI(ホニI)とほとんど同じであり、こちらはホニIIとして区別された。本車は装備する九一式十糎榴弾砲の初速が低いため、対戦車戦闘を考慮した砲戦車として、その運用法が議論されたホニⅠとは異なり、対戦車戦闘は行わず元来の自走砲として運用される想定であった(しかし、昭和19年になると対戦車戦闘が第一の任務に切り替わることになる[1])。同時期各国の自走砲の例に漏れず、戦闘室の上部構造物はオープントップ式で上面と背面の装甲は無い。装甲厚は砲両脇の防盾前面と車体前面で25mmにとどまり、ホニIが防盾前面に25mm、車体前面に16mmの増加装甲を施し最大50mmとなっていたのと異なる。

量産開始は遅れ、1943年11月以降にホニIと合わせて138門(資料によって124門、または55門)が生産されている[2]。本土決戦に備えた昭和20年度火砲調達計画には170門の予定だった。

1944年(昭和19年)11月8日、フィリピン防衛戦のため、陸軍大臣は戦車第四師団から自走砲大隊要員(資材)を南方軍に転属するよう伝達し、独立自走砲大隊が編成された。

同大隊編成基準は本部と四個中隊。二個中隊はホニIを各四門、二個中隊はホニIIを各四門編成。[3]

しかし、ルソン島に到着して揚陸中に空襲を受け、装備は海没全損となり部隊も解散した。なお、これとは別にホニI4両が戦車第2師団の機動砲兵第2連隊に配備されており、こちらはアメリカ軍と交戦している。

装甲貫徹能力

編集

本車が搭載する九一式十糎榴弾砲の装甲貫徹能力であるが、徹甲弾の場合、鋼板貫通限界厚は射距離1,500m/63mm、1,000m/70mm、500m/76mm、100m/83mmであった。また、1945年(昭和20年)8月のアメリカ旧陸軍省の情報資料によれば、鹵獲した九一式十糎榴弾砲の装甲貫徹能力の数値は一式徹甲弾を使用し、弾着角90度で命中した場合は射距離750yd(約685.8m)/2.7in(約69mm)、500yd(約457.2m)/2.8in(約71mm)、250yd(約228.6m)/2.95in(約75mm)となっている[4]

三式穿甲榴弾(タ弾)の場合は射距離1,000m/120mm、500m/80mmの装甲を貫通した[5]

脚注

編集
  1. ^ 古峰文三 他『帝国陸軍 戦車と砲戦車』学習研究社、118頁。
  2. ^ 17年度から19年度までに70門以上製造されたとも推定される。
  3. ^ 戦史叢書第081巻 大本営陸軍部<9>昭和二十年一月まで”. www.nids.mod.go.jp. 2024年5月27日閲覧。
  4. ^ "Japanese Tank and AntiTank Warfare" http://usacac.army.mil/cac2/cgsc/carl/wwIIspec/number34.pdf
  5. ^ 佐山二郎「日本陸軍の火砲 野砲 山砲」p301。

参考文献

編集
  • 佐山二郎『大砲入門』光人社NF文庫、2008年、239頁。
  • 松代守弘「砲戦車・自走砲」『陸軍機甲部隊』歴史群像太平洋戦史シリーズ25、学習研究社、2000年、88頁。
  • 佐山二郎「日本陸軍の火砲(5)」『日本陸軍の戦車砲と自走砲』グランドパワー10月号、2008年、100~103頁。
  • 佐山二郎「日本陸軍の火砲 野砲 山砲」 ISBN 978-4769827450 光人社NF文庫、2012年

関連項目

編集