一如 (僧)
日本の江戸時代の僧
一如(いちにょ)は、江戸時代初期の浄土真宗の僧。東本願寺第十六代法主[2] 。
一如 | |
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慶安2年7月1日 - 元禄13年4月12日 | |
幼名 | 利與麿 |
法名 |
〔本瑞寺住職時代〕琢性[1] 〔大信寺住職時代〕琢亭[1] 〔法嗣指名後〕一如 |
号 | 愚山 |
院号 |
〔本瑞寺住職時代〕恩光院 ⇒無礙光院 |
諱 |
〔本瑞寺住職時代〕克海 〔大信寺住職時代〕瑛含 〔法嗣指名後〕光海 |
尊称 | 一如上人 |
生地 | 京都 |
宗旨 | 浄土真宗 |
宗派 | (後の真宗大谷派) |
廟 | 大谷祖廟 |
生涯
編集本ページでは年齢は数え年、日付は暦の正確性、著作との整合を保つため貞享元年12月30日(1685年2月3日[3] )までは、宣明暦表示。 貞享2年1月1日(1685年2月4日)からは、貞享暦表示とする(生歿年月日を除く)。また本山は、「本願寺」が正式名称だが、「西本願寺」との区別の便宜上、「東本願寺」と表記。
- 慶安2年7月1日[4](1649年8月8日)、東本願寺第十四代 琢如[1]の第6子(四男)として誕生。母は広橋兼賢の娘。
- (年月日不詳)当初は、福井の「東之御坊 本瑞寺」[5]の住職を務め、院号を「恩光院」、法名を「琢性[1]」、諱を「克海」と名告る。
- (年月日不詳)のちに、河内国[6]八尾御坊 大信寺[7]の住職に転任し、法名を「琢亭[1]」、諱を「瑛含」と改める。
- 延宝6年(1678年)、長兄で常如の法嗣(法主後継者)となり、法名を「一如」、諱を「光海」と再度改める。
- 延宝7年(1679年)、第十六代法主を継承。
- 元禄13年4月12日(1700年5月30日)、52歳にて示寂。院号を「無礙光院」とする。
脚注
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