一〇一号作戦
一〇一号作戦(ひゃくいちごうさくせん)とは、1940年(昭和15年)5月17日から 9月5日ごろまでの間に実施された作戦である。百一号作戦ともあらわされる。
一〇一号作戦 | |
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戦争:日中戦争 | |
年月日:1940年(昭和15年)5月17日 - 9月5日 | |
場所:四川省 重慶 | |
結果:中国奥地各都市の破壊 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | 中華民国 |
指導者・指揮官 | |
井上成美 寺倉正三 遠藤三郎 | 蔣介石 劉峙 周至柔 |
戦力 | |
海軍航空隊・陸軍航空隊 | 中華民国空軍・ソ連空軍志願隊 |
損害 | |
戦死 89名 行方不明 21名 喪失16機 | 損害多数 |
背景
編集1937年(昭和12年)の第二次上海事変の結果、日本軍は中華民国の首都を攻略し占領した。これに対して、中国国民党政府は首都機能を南京から漢口に移転した。しかし漢口も陥落したため、さらに内陸である重慶への首都移転を実行した。
大本営は、広大な地上戦線要する中国戦線を拡大することは、日本の国力を超えるものであると判断。また、特に対ソ連関係の変転に対応する戦略態勢の柔軟性を喪失するものと判断した。[1]
立案
編集兵力
編集日本軍
編集陸軍
編集第三飛行集団司令部
飛行第60戦隊(九七式重爆撃機36機 補用18機)
独立飛行第16連隊 (司偵9機 補用3機)
飛行第44戦隊(司偵5機 補用2機)
独立飛行第10中隊(九七式戦闘機9機 補用3機)
海軍
編集第一連合航空隊
鹿屋航空隊(九六式陸上攻撃機など18機 補用15機 陸偵4機)
高雄航空隊(九六式陸上攻撃機など18機 補用15機 陸偵2機)
第二連合航空隊
第13航空隊(九六式陸上攻撃機など27機 補用15機 陸偵4機)
第15航空隊(九六式陸上攻撃機など27機 補用15機 陸偵2機)
第12航空隊(艦上戦闘機27機 補用9機 艦上爆撃機9機 補用3機 艦上攻撃機9機 補用3機)
第14航空隊中支派遣隊(艦戦9機 補用3機)
中国軍
編集重慶 戦闘機約30機
宜賓 軽爆約10機
蘭州 戦闘機約20機 重爆数機 軽爆約20機
昆明 戦闘機約20機
(機数は日本軍推定)
経過
編集初期
編集陸軍航空隊の発進基地は運城に、海軍航空隊の発進基地は漢口(一部は考感飛行場)とし、初日の爆撃で重慶死者178人、負傷408名を記録した。
また、各国大使館や報道機関への着弾も精密性に欠けることから起きてしまい、最終的に退避地域を指定して退避するように要請することで解決した。
しかし当時の日本軍戦闘機では航続距離が足りず、特に中攻の損害がとりわけ目立っていた。このままでは練度の高い搭乗員がかなりの数削がれ、航空兵力の弱体化が目に見えていたため、大本営は新型戦闘機の開発に躍起になっていた。
零戦の登場以降
編集1940年(昭和15年)7月15日、第二連合航空隊から横山保大尉と進藤三郎大尉率いる零戦13機が進出した。九六式陸上攻撃機の護衛を主任務として活動したものの、会敵することはほとんどなかった。[2] [3] 9月半ばに、ようやく中国軍機と戦闘し、ほとんどを撃墜した。またその際、戦闘による零戦の損害はほとんどなかった。[4]
この日を境に中国軍は航空機を温存するようにし、空襲警報と共に奥地へと航空機を退避させるようにした。
その他、精密爆撃の非効率性が露呈してきたため、重慶市内を各区画に分けて順番に各区画を絨毯爆撃する方法を編み出し、事実上無差別爆撃を行う形となった。[5]
結果
編集日本軍戦果
編集奥地進行総数
攻撃日数
陸軍21日 海軍50日(54回)
攻撃延機数 九七式重爆727機 司偵177機 零銭24機 中攻3627機
使用爆弾 27107発 2957トン
交戦統計
交戦延機数 607機
撃墜機数 117機(不確実14機)
地上撃破 65機
各都市の破壊
中国軍戦果
編集日本軍機 16機撃墜
その他
編集日本軍はその後一〇二号作戦を立案し、実施した。
また、一〇一号作戦発動中は、ちょうどドイツによるロンドン空襲が実施されていた時期と重なり、重慶市民はある種のロンドンとのつながりを感じていたとされている。
脚注
編集参考文献
編集太平洋戦争研究会編 森山康平著『日中戦争』2000年 河出書房新社
笠原十九司 『日中戦争全史』2017年 高文研
前田哲男 『戦略爆撃思想』 1988年 朝日新聞社
菊池一隆 『中国抗日軍事史』2009年 有志舎
『戦史叢書 中国方面陸軍航空作戦』
神立尚紀 『戦士の肖像』文春ネスコ、2004年。
防衛庁防衛研修所戦史室『中国方面海軍作戦』 2巻、朝雲新聞社〈戦史叢書 79〉、1975年。
牧島貞一『炎の海 : 報道カメラマン空母と共に』光人社、2001年。ISBN 4-7698-2328-2。