ヴェンツェル・オイゼビウス・フォン・ロプコヴィッツ
ヴェンツェル・オイゼビウス・フォン・ロプコヴィッツ(独: Fürst Wenzel Eusebius von Lobkowicz, 1609年1月30日 - 1677年4月2日)は、ハプスブルク帝国領ボヘミアの貴族、政治家、外交官。侯爵(フュルスト)、ザーガン公爵(在位:1646年 - 1677年)。
ヴェンツェル・オイゼビウス・フォン・ロプコヴィッツ Wenzel Eusebius von Lobkowicz | |
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ザーガン公 | |
在位 | 1646年 - 1677年 |
称号 | ロプコヴィッツ侯 |
出生 |
1609年1月30日 |
死去 |
1677年4月2日(68歳没) |
配偶者 | ヨハナ・ミシュコヴァー・ゼ・ジルニッツ |
アウグステ・ゾフィー・フォン・プファルツ=ズルツバッハ | |
子女 |
フェルディナント・アウグスト・レオポルト フィリップ・フェルディナント・アーダルベルト マリー・ヘートヴィヒ・ゾフィー フランツ・ヴィルヘルム・イグナティウス |
家名 | ロプコヴィッツ家 |
父親 | ズデニェク・ヴォイチェフ・ポペル・フォン・ロプコヴィッツ |
母親 | ポリクセナ・フォン・ペルンシュテイン |
生涯
編集ボヘミア大法官を務めたズデニェク・ヴォイチェフ・ポペル・フォン・ロプコヴィッツ侯爵と、その妻で富裕な女子相続人のポリクセナ・フォン・ペルンシュテインの間の一人息子として生まれた。自身も巧妙な財政手腕でかなりの財産を蓄えた。学業を終えて1631年に皇帝軍に入隊し、やがて政治家、外交官として著名になった。1646年には神聖ローマ皇帝フェルディナント3世にシュレージエン地方のザーガン公領を授けられた。この公爵領はアルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインが1634年に死んだ際に皇帝が没収していたものだった。1644年、金羊毛騎士団の騎士に叙任された。
次の皇帝レオポルト1世からも寵愛され、1657年には宮廷顧問官会議の議長に就任、事実上の宰相として国政を思うままに動かした。母が熱心な親スペイン派で有名だったにもかかわらず、ロプコヴィッツはフランス宮廷と同盟関係を築き、ウィーン宮廷内の親スペイン派と敵対していた。1674年、レオポルト皇帝の2番目の妻クラウディア皇后と対立したことで失寵をこうむり、ラウドニッツの所領に蟄居させられた。
子女
編集1638年11月3日にヨハナ・ミシュコヴァー・ゼ・ジルニッツ(1600年 - 1650年)と結婚したが、間に子供は無かった。1653年2月6日にプファルツ=ズルツバッハ公アウグストの娘アウグステ・ゾフィーと再婚し、間に5人の子女をもうけている。
- 長男(1654年)
- フェルディナント・アウグスト・レオポルト(1655年 - 1715年)
- フィリップ・フェルディナント・アーダルベルト(1656年 - 1659年)
- マリー・ヘートヴィヒ・ゾフィー(1658年 - 1660年)
- フランツ・ヴィルヘルム・イグナティウス(1659年 - 1698年)
参考文献
編集- Adam Wolf (1884). "Wenzel Eusebius v. Lobkowitz". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 19. Leipzig: Duncker & Humblot. p. 52.
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