ヴィルヘルム・ハスペル
ヴィルヘルム・ハスペル(Wilhelm Haspel、1898年4月29日 - 1952年1月6日)は、ドイツの実業家である。ダイムラー・ベンツの2代目の取締役会会長として知られる。
ヴィルヘルム・ハスペル Wilhelm Haspel | |
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生誕 |
1898年4月29日 ドイツ帝国 ヴュルテンベルク王国 シュトゥットガルト |
死没 |
1952年1月6日(53歳没) 西ドイツ・ヴュルテンベルク=バーデン州シュトゥットガルト |
国籍 | ヴュルテンベルク王国( ドイツ帝国) → ドイツ国 → ドイツ国 → 連合国軍占領下のドイツ → 西ドイツ |
職業 | ダイムラー・ベンツ 取締役会会長(1942年 - 1952年) |
前任者 | ヴィルヘルム・キッセル |
後任者 | ハインリヒ・ヴァーグナー |
経歴
編集ドイツ帝国・ヴュルテンベルク王国のシュトゥットガルトで、職工を務める父の子として生まれた。
1918年後半の冬学期にシュトゥットガルト工科大学に入り、機械工学の研究を始めた[W 1]。1924年にダイムラー社(DMG)に加わるが、その後も研究を続け、1926年に「自動車産業の工場における経費記録と原価計算」(Unkostenerfassung und Selbstkostenrechnung in einem Werk der Fahrzeugindustrie)をテーマにして、博士号を取得した[W 2]。
1924年1月、ダイムラー社で原価計算部門の責任者となる[W 2]。同社は1926年にベンツ社(Benz & Cie)と合併して「ダイムラー・ベンツ」となり、1927年にハスペルは同社のジンデルフィンゲン工場の管理者(工場長)となる[W 2]。
1932年にはジンデルフィンゲン工場が担っていた同社のボディ製造全般の責任者を任され[注釈 1]、ハスペルの指導の下で高品質なボディを製造するようになったことで、メルセデス・ベンツ車の「ジンデルフィンゲン製ボディ」の名声は国際的に鳴り響くようになった[W 1]。
取締役就任
編集ハスペルは1935年末にシュトゥットガルト・ウンターテュルクハイムの同社本社に異動し、1936年2月28日に同社取締役会に副メンバーとして加わり、1941年末に正式に取締役となる[W 2]。
ナチスとの関係
編集ハスペルの妻はユダヤ人の血を引いており、ダイムラー・ベンツ社はそのことを問題にしなかったが[W 2]、1931年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が政権を得て以降、ナチ党には目を付けられ、ゲシュタポによって強制収容所に送られる寸前だったと言われるほどの不安定な立場に置かれた[4]。そうした事情から、ハスペルはナチ党の党員になることはなく[5][6]、当時のダイムラー・ベンツの取締役会の中でもナチ党との個人的な関りを持たない唯一の人物だと言われることがある[7][注釈 2]。
ダイムラー・ベンツでは、監査役の中に複数名いたユダヤ人の銀行家は出自を理由に同社から追放されたが、ハスペルについては同社の中でも特に有能だったことに加えて、同社で進行中の合理化計画の中心的存在だったため追放するわけにいかなかったという事情があったと言われている[6]。ハスペル夫妻に対してはダイムラー・ベンツの取締役会や監査役会、またある時はナチ党の信任厚い建築家であるアルベルト・シュペーアらが保護の手を差し伸べ、危害が加えられることは回避された[4]。そうした事情もあり、ハスペル夫妻への例外的な扱いについては、ナチ党との仲介役であるヤコブ・ヴェーリンを介して、ダイムラー・ベンツとアドルフ・ヒトラー、ヘルマン・ゲーリングとの間で合意が持たれた[6]。
会長就任に際しての悶着
編集1942年7月にそれまで同社を率いていたヴィルヘルム・キッセルが急死したことで、翌8月にハスペルが取締役会会長の地位を引き継いだ[W 2]。
この人事はヒトラーの承認も得たものだったが、ドイツ労働戦線(DAF)はユダヤ人の姻戚であるハスペルがドイツ有数の企業のトップになることを「ナチス国家への侮辱」と呼び批判した[9]。
第二次世界大戦終戦以降
編集第二次世界大戦によりダイムラー・ベンツはその生産設備の大部分を破壊され、戦争の終結後、ハスペルは自動車生産の再開を目指し、破壊された生産ラインの再建を進めた[10]。しかし、ドイツを占領して軍政を敷いていた連合国は、非ナチ化プロセスの一環としてハスペルをダイムラー・ベンツ社の取締役から解任し、1945年10月にハスペルは取締役会を一時的に去ることを強いられた[W 2]。その後、同社の経営は連合国の当局によって任命されたオットー・ホッペが一時的に代行したが[10][注釈 3]、1947年半ばに免責されたことでハスペルはダイムラー・ベンツの取締役会に復帰し、1948年1月に同社の取締役会会長に再び任命された[W 2]。
ダイムラー・ベンツは戦時中に工場施設の大半を失っており、以降、ハスペルはその再建に尽力した。特に商用車部門の再建と拡大に大きな役割を果たし、乗用車部門についても生産をウンターテュルクハイム(本社工場)からジンデルフィンゲンに移すなどの施策を実行した[W 2]。同社の輸出志向についても強化を行い、その後の同社の海外進出を方向付けた[W 2]。1939年限りで活動を停止していた同社のモータースポーツ活動についても再開を強く支持し、1952年春に同社はモータースポーツに復帰することとなった[W 2]。
しかし、ハスペルは在任中の1952年1月に脳出血により死去し、同社のその後の各分野における成功を見ることはなかった[W 2]。
死後
編集その遺体はシュトゥットガルト森林墓地に葬られた[W 1]。
ハスペルがかつてダイムラー・ベンツの工場長を務めていたジンデルフィンゲン市からは、ハスペルの死後間もなく名誉市民の称号が授与(追贈)された[W 1]。同市の通りのひとつにはハスペルの名が付けられ、「ヴィルヘルム・ハスペル通り」として名前が残っている[W 1]。
栄典
編集- 1951年・名誉博士(シュトゥットガルト工科大学)
- 1951年・名誉評議員(ダルムシュタット工科大学)
- 1952年・名誉市民(ジンデルフィンゲン市)
脚注
編集注釈
編集- ^ ジンデルフィンゲン工場はダイムラー社時代は完成車を生産していたが、ベンツ社との合併に伴う合理化でその役割は「ボディ製造の専用工場」に変わっており[1]、ダイムラー・ベンツ社が製造する全車種(トラックを含む)のボディは同工場のみで集中生産されて他の各工場に供給される体制になっており[2][3]、ハスペルが任されたのは当時の同社としても重要な役割だった。
- ^ 当時の取締役会でハスペル以外にもカール・シッパルト(Carl Schippert)、フリッツ・ナリンガー、オットー・ホッペ(妻がユダヤ人)の3名はナチ党に入党しなかったが[6]、国家社会主義自動車軍団(NSKK)の役職を受けるといった形で関係を持っている[8]。
- ^ ハスペルはこの間も自宅から会社に指示を出し、実質的に経営を続けていた[10]。
出典
編集- 書籍
- ^ ナチズムとドイツ自動車工業(西牟田1999)、p.60
- ^ ナチズムとドイツ自動車工業(西牟田1999)、p.33
- ^ ナチズムとドイツ自動車工業(西牟田1999)、p.59
- ^ a b メルセデス・ベンツの思想(ザイフ/中村1999)、pp.44–49
- ^ Die Daimler-Benz AG in den Jahren 1933 bis 1945(Bruninghaus 1987)、別冊 p.47
- ^ a b c d ナチズムとドイツ自動車工業(西牟田1999)、p.150
- ^ Stern und Hakenkreuz. Daimler-Benz im Dritten Reich(Gregor 1997)、p.216
- ^ ナチズムとドイツ自動車工業(西牟田1999)、p.149
- ^ ナチス期のダイムラー・ベンツ(川瀬1999)、p.37
- ^ a b c MB 栄光の歴史(ハイリッグ/増田2000)、p.43
- ウェブサイト
参考資料
編集- 書籍
- Beate Bruninghaus, Stephanie Habeth-Allhorn, Hans Pohl (1987) (ドイツ語). Die Daimler-Benz AG in den Jahren 1933 bis 1945. Franz Steiner Verlag. ASIN 3515117822. ISBN 3515047336
- Ingo Seiff (1989). Mercedes Benz: Portrait of a Legend. Gallery Books. ASIN 0831758597
- インゴ・ザイフ(著)、中村昭彦(訳)、1999-05-10、『メルセデス・ベンツの思想』、講談社 ISBN 4-06-209711-7 NCID BA41493988 ASIN 4062097117
- Neil Gregor (1997) (ドイツ語). Stern und Hakenkreuz. Daimler-Benz im Dritten Reich. Propyläen, Berlin. ASIN 3549056044. ISBN 3549056044
- John Heilig (1998-09). Mercedes Nothing but the Best. Chartwell Books. ASIN 0785809376. ISBN 9780785809371
- ジョン・ハイリッグ(著)、増田小夜子(翻訳)、大埜佑子(翻訳)、2000-11-26、『Mercedes:メルセデス-ベンツ 栄光の歴史』、TBSブリタニカ ISBN 4-484-00411-9 NCID BA50479172 ASIN 4484004119
- 西牟田祐二、1999-10-30、『ナチズムとドイツ自動車工業』、有斐閣〈京都大学経済学叢書〉 ISBN 4-641-16074-0 NCID BA44163403 ASIN 4641160740
- 論文
- 川瀬泰史「ナチス期のダイムラー・ベンツ」(PDF)『立教経済学研究』52(3)、立教大学、1999年、pp.23-46、NAID 110006487178。
外部リンク
編集- Dr. Willhelm Haspel. CEO 1942-1952 - Mercedes-Benz Group Media