ヴィトルト・マウツジンスキ
ヴィトルト・マウツジンスキ | |
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基本情報 | |
生誕 |
1914年8月10日 ワルシャワ公国 コジチン |
死没 |
1977年7月7日(62歳没) スペイン パルマ |
学歴 |
ワルシャワ音楽院 パリ音楽院 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | ピアニスト |
担当楽器 | ピアノ |
ヴィトルト・マウツジンスキ[1](ポーランド語: Witold Małcużyński、1914年8月10日 ワルシャワ近郊コジチン - 1977年7月17日 マヨルカ島パルマ)はポーランドのピアニスト。
略歴
編集1914年、 ワルシャワ近郊・コジチンで生まれた。5歳でピアノを始めたものの、父の勧めにより当初は法学と哲学を修習するつもりであった[2][3]。しかし、音楽への情熱を断ちがたく、ワルシャワ音楽院でフェルッチョ・ブゾーニ門下のユゼフ・トゥルチンスキに師事した。1936年には、元ポーランド共和国首相で19世紀ロマン派ピアニストの黄金時代を知るイグナツィ・パデレフスキの薫陶も受けた。
1937年に開かれたショパン国際ピアノコンクールで第3位に入賞した後、パリ音楽院に留学してイシドール・フィリップやマルグリット・ロン等の教えも受けている。また、パリではフランスのピアニストであったコレット・ガヴォー(Colette Gaveau)と結婚した。
- 第二次世界大戦
ナチスの侵攻にフランスが降伏すると、コレット夫人とともにポルトガルに逃れ、そこで思いがけずグジェゴシュ・フィテルベルクと出逢った。フィテルベルクから南米での演奏旅行を持ちかけられ、1940年10月にアルゼンチンに行き、1942年4月にはアメリカ合衆国に移った。戦後はスイスに移住してその地に暮らした。1977年にパルマで死去。
演奏ならびにその特徴
編集ショパンの解釈に定評があった。
家族・親族
編集- 妻:コレット・ガヴォーはピアニスト。
- 弟:カロル・マウツジンスキ(Karol Małcużyński (ポーランド語版), 1922年-1984年)はライターで政治家である。
参考文献
編集- Wolny, Marcin. “Rocznica śmierci Witolda Małcużyńskiego”. Forum Polonijne 4 (2007): 38. ISSN 1234-2807.
外部リンク
編集脚注
編集- ^ 日本では「ヴィトルド・マルクジンスキ(マルクジンスキー)」等のカナ表記が使われたこともある。
- ^ The Witold Malcuzynski Website/biography
- ^ 吉澤ヴィルヘルム『ピアニストガイド』青弓社、印刷所・製本所厚徳所、2006年2月10日、81ページ、ISBN 4-7872-7208-X