ヴァン・マッコイ
ヴァン・アレン・クリントン・マッコイ(Van Allen Clinton McCoy、1940年1月6日 - 1979年7月6日)は、アメリカ合衆国のミュージシャン、作曲家。1975年のヒット曲「ハッスル」で知られる。バーバラ・ルイスの「ベイビー・アイム・ユアーズ」の作者としても知られる。
ヴァン・マッコイ Van McCoy | |
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出生名 | Van Allen Clinton McCoy |
生誕 |
1940年1月6日 ワシントンD.C. |
出身地 | アメリカ合衆国 |
死没 |
1979年7月6日(39歳没) ニュージャージー州イングルウッド |
ジャンル | ディスコ、R&B |
職業 | ミュージシャン、作曲家、音楽プロデューサー |
担当楽器 | コーラス • ほか |
活動期間 | 1952年 - 1979年 |
レーベル | Columbia • Avcoレコード • H&Lレコード |
来歴・人物
編集ワシントンD.C.生まれ。幼い頃から聖歌隊で歌い、1950年代にドゥーワップのいくつかのグループに参加し、レコードを吹き込む。心理学を学ぶためハワード大学に入学したが2年で中退し、作曲家、A&Rとして活動するようになり、1960年代にグラディス・ナイト&ピップスなどに曲を提供した。また、ブレンダ&タビュレーションズにも楽曲を提供している。
1970年代にもプレジデンツ、フェイス・ホープ&チャリティー、ニュー・センセーションなど、プロデューサーとして活動を続ける一方、ソウル・シティ・シンフォニーを結成した[1]。彼は自身の名義で1975年にインストゥルメンタルのアルバム『ディスコ・ベイビー』を発表した。ここからシングルカットされた「ハッスル」が全米1位、世界でレコード売上総計約1000万枚の大ヒットを記録し、グラミー賞の最優秀ポップ・インストゥルメンタル賞を受賞。西のバリー・ホワイト[2]に対して、東のヴァン・マッコイとも位置づけられた。彼は、アメリカをはじめ、西側世界を中心としたディスコ・ブームの一翼を担った。
この後もディスコのアルバムをリリースする一方、元テンプテーションズのデヴィッド・ラフィンの「ウォーク・アウェイ・フロム・ラブ」など、ソウル/R&Bのシンガー、グループのプロデュースも手がけた。
日本では、吹奏楽や高校野球の応援曲として演奏される「アフリカン・シンフォニー」(1974年)の作曲者としても知られた。
制作作品
編集- ウェン・ユア・ヤング・アンド・イン・ラブ - ルビー&ロマンティックス
- ベイビー・アイム・ユアーズ」 - バーバラ・ルイス
- ライト・オン・マイ・ティップ・オン・マイ・タング - ブレンダ&タビュレーションズ
- 5-10-15-20-25-30イヤーズ・オブ・ラブ - プレジデンツ
- 愛がすべて - スタイリスティックス
- ラブ・イズ・ジ・アンサー - スタイリスティックス
- ウォーク・アウェイ・フロム・ラブ - デヴィッド・ラフィン
脚注
編集- ^ “Van McCoy Profile”. Everything2. 30 May 2022閲覧。
- ^ 1974年にラブ・アンリミテッド・オーケストラ名義の「愛のテーマ」が大ヒットした
関連項目
編集- フィラデルフィア・ソウル
- スタイリスティックス
- スタッフ (バンド) - ヴァン・マッコイのバック演奏
- ディスコ (音楽)
外部リンク
編集- 公式サイト(英語。音が出るので注意)