ヴァルラム3世 (リンブルフ公)
ヴァルラム3世(Walram III, 1165年ごろ - 1226年7月2日)は、モンジョワ領主、のちルクセンブルク伯(在位:1214年 - 1226年)。また、1221年に父の死によりアルロン伯およびリンブルフ公(在位:1221年 - 1226年)となった。
ヴァルラム3世 Walram III | |
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ルクセンブルク伯 リンブルフ公 | |
ヴァルラム3世のシール | |
在位 |
ルクセンブルク伯:1214年 - 1226年 リンブルフ公:1221年 - 1226年 |
出生 |
1165年ごろ |
死去 |
1226年7月2日 リンブルフ公領、ケルクラーデ、ロルドゥク修道院 |
埋葬 | リンブルフ公領、ケルクラーデ、ロルドゥク修道院 |
配偶者 | キュネゴンド・ド・ロレーヌ |
ルクセンブルク女伯エルメジンデ | |
子女 |
ゾフィー マティルデ ハインリヒ4世 ヴァルラム ハインリヒ5世 ジェラール1世 カタリーナ |
家名 | リンブルフ家 |
父親 | リンブルフ公ハインリヒ3世 |
母親 | ゾフィー・フォン・ザールブリュッケン |
生涯
編集ヴァルラム3世はリンブルフ公ハインリヒ3世とゾフィー・フォン・ザールブリュッケンの次男である。このため、当初はリンブルフの継承者ではなかった。ヴァルラムは冒険好きな若者で、1192年に第3回十字軍に参加した[1]。1208年、ローマ王フィリップが死去し、フィリップのかつての支持者は対立王であったオットー4世に目を向けるようになった。1212年、ヴァルラムは従兄弟ブラバント公アンリ1世に従いリエージュに向かい、ゲルデルン軍と戦った。ヴァルラムの最初の妃キュネゴンドはロレーヌ公フェリー1世の娘であったが1214年に死去した。ヴァルラムは同年5月にルクセンブルク女伯エルメジンデと再婚し[2]、妻の権利によりルクセンブルク伯となった。エルメジンデはナミュール伯領の継承を請求しており、それを示すためヴァルラムは自らの紋章に王冠を加えた。
1221年、ヴァルラム3世はリンブルフ公位を継承し、紋章のライオンの尾を2本とした。これはヴァルラム3世がルクセンブルクとリンブルフの2つの大きな領地を保持していることを示している。1223年、ヴァルラムは再びナミュール侯フィリップ2世に対し、自らのナミュールの権利を主張した。しかし、これは失敗に終わり、2月13日にディナンで条約を結んだ。その後ヴァルラムは帝国議会に何回か参加し、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世に従いイタリア遠征に参加した。イタリアから帰還した後、1226年7月2日にロルドゥク修道院でヴァルラム3世は死去した。
家族と子女
編集脚注
編集- ^ Gade 1951, p. 77.
- ^ Péporté 2011, p. 109-110.
- ^ a b c d Loud & Schenk 2017, p. xxix.
参考文献
編集- Gade, John A. (1951). Luxemburg in the Middle Ages. E.J. Brill
- The Origins of the German Principalities, 1100-1350: Essays by German Historians. Routledge. (2017)
- Péporté, P. (2011). Historiography, Collective Memory and Nation-Building in Luxembourg. Brill
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