ヴァシリコ・ユーリエヴィチ
ヴァシリコ・ユーリエヴィチ(ロシア語: Василько Юрьевич、? - 1161年以降)は、スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキーの子である。スーズダリ公:1149年 - 1151年[1]、ポロシエ公:1155年 - 1161年[1]。
ヴァシリコ・ユーリエヴィチ Василько Юрьевич | |
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スーズダリ公 ポロシエ公 | |
イジャスラフの使者を迎えるヴァシリコ | |
在位 |
スーズダリ公:1149年 - 1151年 ポロシエ公:1155年 - 1161年 |
死去 |
1161年以降 |
家名 | リューリク家 |
父親 | スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキー |
母親 | クマン人のハン・アエパの娘 |
生涯
編集父のユーリーが1149年にキエフ大公として承認されてから、1155年にスーズダリ公に戻るまでの間、ユーリーのナメストニクとしてスーズダリの統治を任されていた。1157年の父の死以降、1161年まで、ヴァシリコはポロシエ(キエフ南方の軍事的入植地帯)を保持していた。それはキエフ大公位を狙うイジャスラフとユーリー一族の闘争の最終局面において、ヴァシリコが黒頭巾族(ポロシエの遊牧民の総称)と共に闘争に参加していたことによる。
その後、兄弟のアンドレイ・ボゴリュブスキーによってビザンツ帝国へ送られ、ドナウ川流域にいくらかの領土を得た[1]。ヴァシリコの死亡年、また家族に関しては不明である。
出典
編集- ^ a b c Л.Войтович 3.17. МОНОМАХОВИЧІ. ЮРІЙОВИЧІ. РОСТОВСЬКА, СУЗДАЛЬСЬКА, МОСКОВСЬКА І ТВЕРСЬКА ГІЛКИ // КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ CXIДНОЇ ЄВРОПИ ― Львів - 2000