ローベルト (オーストリア=エステ大公)
ローベルト・フォン・エスターライヒ=エステ(ドイツ語: Robert von Österreich-Este, 1915年2月8日 - 1996年2月7日)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇族。元皇太子オットーの弟にあたる。
ローベルト Robert | |
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エスターライヒ=エステ家 | |
全名 |
一覧参照
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称号 |
エスターライヒ=エステ大公 モデナ公 |
出生 |
1915年2月8日 オーストリア=ハンガリー帝国・ウィーン シェーンブルン宮殿 |
死去 |
1996年2月7日(80歳没) スイス・バーゼル=シュタット準州 バーゼル |
埋葬 | スイス、アールガウ州、ムーリ修道院ロレート礼拝堂 |
配偶者 | マルゲリータ・ディ・サヴォイア=アオスタ |
子女 |
一覧参照
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父親 | カール1世 |
母親 | ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ |
宗教 | キリスト教カトリック教会 |
生涯
編集皇位継承者だったカール大公(後の皇帝カール1世)とその妃ツィタの次男として生まれる。1917年に父帝によってエスターライヒ=エステ大公に叙せられた。
第一次世界大戦後に君主制が崩壊すると、スイス、マデイラ島を経てスペインに移り住んだ。ルーヴァン・カトリック大学で経済学と政治学の博士号を取得して卒業した。ローベルトはロンドンでオーストリア=ハンガリーの亡命者を糾合するのに腐心し、1945年にナチス・ドイツが崩壊するとオーストリアに戻って政治運動を行おうとしたが、共和国政府によって追放された。以降はブリュッセルで銀行員として働いた。その後、スイスのバーゼルにある老舗プライベートバンクのグッツウイラー銀行の頭取として天寿を全うした。
逸話
編集第二次世界大戦中、兄オットーとともにオーストリア解放に尽力した。英国のハロルド・アレグザンダー将軍の要請によって、通訳としてユーゴスラビア抵抗運動の指導者チトーとの会談に加わった。チトーは通訳の正体を知らないままその出身地を尋ねた。ローベルトは「シェーンブルンです」と答えた。次に名前を尋ねられ、ローベルトは自分の名前を言った。かつてオーストリア=ハンガリー帝国の下士官だったチトーは、椅子から飛びあがって軍隊式の姿勢をとって敬礼し、「大公殿下、参上いたしました」と言った[1]。
子女
編集1953年に旧イタリア王族で第3代アオスタ公アメデーオの長女マルゲリータ(1930年 - )と結婚し、3男2女をもうけた。
- マリア・ベアトリーツェ(1954年 - ) - 1980年にアルコ=ツィンネベルク伯爵リプラント(バイエルン国王ルートヴィヒ3世の曾孫)と結婚
- ローレンツ(1955年 - ) - エスターライヒ=エステ大公 ベルギー王子
- ゲルハルト(1957年 - )
- マルティン(1959年 - ) - イーゼンブルク侯女カタリナ(イーゼンブルク侯家家長フランツ・アレクサンダーの長女で、プロイセン王家家長ゲオルク・フリードリヒの妃ゾフィーの姉)と結婚
- イザベラ(1963年 - ) - チャルノツキ=ルケスキ伯爵アンドレアと結婚
出典
編集- ^ エーリッヒ・ファイグル 『ハプスブルク帝国、最後の皇太子――激動の20世紀欧州を生き抜いたオットー大公の生涯』(2016) p.280
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