ロタール2世
ロタール2世(Lothar II, 835年 - 869年8月8日)は、中部フランク国王ロタール1世の次男であり、中部フランク王国から分裂したロタリンギア王国の国王(在位:855年 - 869年)である。
ロタール2世 Lothar II | |
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ロタリンギア国王 | |
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在位 | 855年 - 869年 |
出生 |
835年 |
死去 |
869年8月8日 ピアチェンツァ |
埋葬 | ピアチェンツァ、サンタントニーノ聖堂 |
配偶者 | テウトベルガ |
子女 | 一覧参照(庶子のみ) |
家名 | カロリング家 |
王朝 | カロリング朝 |
父親 | ロタール1世 |
母親 | エルマンガルド・ド・トゥール |
宗教 | カトリック教会 |
生涯
編集855年、父ロタール1世は死に際し、自らの領地と皇帝位を三人の息子に分割することを決めた。次男であったロタールはアーヘンを含むフリースラントから北部ブルグント(ジュラ山脈以北)に至るロタリンギアの地を与えられることとなった。863年に弟シャルルが相続人なく死去したため、ロタール2世と兄皇帝ロドヴィコ2世(ルートヴィヒ2世)はシャルルの領地を分割することとし、ロタール2世はリヨン、ヴィエンヌ、グルノーブル司教管区を得た[1][2]。
855年にボゾン家のアルル伯ボソ3世の娘テウトベルガと結婚した。しかし正妻のテウトベルガとの間に子供を得られなかったので、彼女に近親者との不義密通を告白させて、これと離縁し、愛妾のワルトラーダと結婚しようと企てたが、ローマ教皇ニコラウス1世らの反対に遭い果たせなかった。867年にニコラウス1世が死去、兄ロドヴィコ2世夫妻の仲介で後任のハドリアヌス2世との会見を果たし、離婚問題が再審議されることとなったが、それがなされる前の869年8月、庶子のみを残してピアツェンツァで死去した[3]。ロタールの死はメルセン条約のきっかけとなった。
なお、ロタリンギア - フランス語でいうロレーヌ(Lorraine)、ドイツ語でいうロートリンゲン(Lothringen) - という地名は、ラテン語の「Lotharii Regnum」(ロタールの王国)から来ており、彼の名前に由来している。
子女
編集愛妾のワルトラーダとの間に1男3女の庶子をもうけた。
- ウーゴ(855年頃 - 895年) - アルザス公(867年 - 885年)
- ギーゼラ(860年頃 - 908年) - フリースラント公ゴドフリドと結婚
- ベルタ(863年頃 - 925年) - 1.アルル伯テオバルド(ボゾン家)と結婚、2.トスカーナ辺境伯アダルベルト2世と結婚
- エルメンガルダ(? - 898年) - 聖ジャスティン修道院の修道女
関連項目
編集脚注
編集参考文献
編集- 成瀬治 他 編 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社、1997年
- 柴田三千雄 他 『世界歴史大系 フランス史1』 山川出版社、1995年
- 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
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