黎利

大越後黎朝(前期)初代皇帝。黎曠の三子
レ・ロイから転送)

黎 利(れい り、レ・ロイ、ベトナム語Lê Lợi / 黎利1385年9月10日 - 1433年9月5日)は、後黎朝大越の初代皇帝(在位:1428年 - 1433年)。太祖(タイト、ベトナム語Thái Tổ / 太祖)の廟号でも知られる。号は高皇帝。

太祖 黎利
後黎朝
初代皇帝
タインホア省人民委員会本部前にあるレ・ロイ像
王朝 後黎朝
在位期間 1428年 - 1433年
都城 昇龍
姓・諱 黎利
尊号 順天承運睿文英武大王
諡号 統天啓運聖徳神功睿文英武寛明勇智弘義至明大孝高皇帝
廟号 太祖
別号 藍山洞主、権署安南国事
生年 昌符9年8月6日(1385年9月10日
没年 順天6年8月22日(1433年9月5日
黎曠
鄭氏蒼
后妃 恭慈皇后
陵墓 永陵
元号 順天 : 1428年 - 1433年

もと中部清華の藍山(ラムソン)の豪族であった。胡朝による簒奪と、その後の明による侵略と胡朝の滅亡・その後の明朝の支配を経験する。1416年、藍山(ラムソン)で大越独立のための挙兵(藍山蜂起)を開始し、10年間におよぶ抗争の末、明軍の安南からの掃討に成功する。1426年に傀儡として陳朝の末裔の天慶帝を皇帝に擁立し、後にこれを殺害、1428年、東都(昇龍、現ハノイ)で皇帝への即位を宣言し後黎朝を開いた。

生涯

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早年期

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陳朝の末期の1385年9月10日、梁江県藍山郷の豪族の家に生まれる[1]。一説には曾祖父の黎誨中国語版が旅の道中でこの土地に移住し、3年の月日を経て観光産業[訳語疑問点]を発展させたとされる。黎利の誕生した頃、当時の朝廷であった陳朝では、当時の皇帝であった順宗皇后中国語版の父親である外戚の胡季犛によって暗殺され、その子の少帝に禅譲を強要した胡季犛が帝位を簒奪して胡朝を開いたものの、当時の中華王朝であった朝の侵攻(明胡戦争中国語版)によって滅亡し、安南は明の直接支配を受けることとなった(第四次北属期)。

この際の黎利の明への対応は大越側と明側の史料によって異なり、大越側の史料である『大越史記全書[注釈 1]では「明の統治下への移行後、大越の人民には労役と降伏の選択肢が与えられたが、黎利は官爵による懐柔や実力による脅迫など、明人の様々な働き掛けに惑わされなかった[2]」その後「旧陳朝の残存勢力である後陳朝の抵抗運動には見込みを見出さず、自ら反乱を起こすため山林に逃れて避難民らを結集した[3]」と記している。一方、明側の史料である『明実録』では、「黎利は表向き明に降り、巡回活動を行いながら、その実明への反乱を企図していた」と記す[4]

藍山蜂起

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永楽16年:藍山で挙兵

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明の統治に不満を持っていた黎利は、各地の豪傑との関係強化や流民の統合を進め、そして1418年2月、故郷の藍山で「平定王(ビンディン・ヴオン)」を称し、のち重臣となる阮廌(グエン・チャイ)、将軍の黎石中国語版・黎柳らと共に明への武装抵抗を開始した(藍山蜂起[5][6]。蜂起当初、明軍は内大臣[訳語疑問点]の馬騏を派遣したが、黎利は待ち伏せを仕掛けてこれを撃退した[7]。しかし蜂起当初の黎利の軍は兵力が少なく、黎利の軍は至霊山で明軍の包囲を受けるに至ってしまう。黎利は「紀信[注釈 2]となってくれるものはいるか」と尋ねたが、この時旗揚げ仲間の一人だった黎来中国語版が囮に名乗り出、その犠牲によって黎利は包囲を突破することができた[8]

永楽20年:霊山での包囲戦

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1422年2月には、明の将軍であった李彬が病死する[9]などした。しかし同年12月、黎利の軍は明軍に大敗を喫して包囲を受けてしまい、黎利は春秋時代の兵法書であった孫子兵法の「疾戦則存、不疾戦則亡者、為死地[注釈 3]」との文言を引用して兵達を奮い立たせ、明の将軍の馬騏・陳智を撃退するなど奮戦したが、その後至霊山に戻った黎利軍の兵達は2カ月近く飢えに苦しみ、野菜・根菜タケノコなどしか口にできないという状態となった[10][11]。黎利はを屠殺し、その肉を振る舞うなどして飢えを凌がせ、また脱走兵を捕えて処刑するなどして、軍の綱紀を緩めなかった。しかし兵達もやがて疲労から和睦を訴え、黎利はやむなく明軍に和睦を提案し、明の将軍らもまた長期戦は不利だと考えていたため、形式上の和睦に至った[12]。1423年の夏頃、黎利の軍は藍山に帰還した[13]

永楽21年:再度の進軍開始

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明の陳智は多数の牛馬や魚、塩、穀物、農具などを送って懐柔を試みたが、黎利は金銀財宝を持たせた使者を送ってこれに返した[14]。しかし黎利に屈服の意思がないことを知った陳智は、使者を抑留して返さなかった[15]。これを知った黎利は怒りを露わにし、ついに兵士らと共に徹底抗戦を宣誓した[16]。この年の冬に、黎利は子の黎元龍(後の第2代皇帝である太宗)を設けている[17]

永楽22年:柵山での包囲戦

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1424年冬、黎利は地元住民ながら明に官吏として仕えていた琴彭中国語版に帰順を呼び掛けたが、琴彭はこれを拒否したため、黎利は兵士たちを率いて、琴彭ら1,000人余りの籠城する柵山を包囲した。この後の琴彭の動向は大越側・明側の史料によって記述が異なり、『大越史記全書』によれば明の将軍の方正・山寿らは救援に向かう勇気がなかったため和解を勧め、救援がないことを知った琴彭は降伏し、黎利はこれを受け入れて兵士達に投降者の虐殺を固く禁じたものの、琴彭は後に謀反を起こして誅殺された、とされる[18]。一方で『明史』によると、救援を得られなかった琴彭は朝廷に窮状を訴え、情勢を知った宣宗(宣徳帝)は陳智ら現地の将を叱責し早急の救援を命じたが、勅命の報が届く前に陥落して琴彭は処刑され、詔により交趾左布政使を追贈され、子の一人は朝廷に官吏として登用された、と伝わる[19]

永楽22年~永楽24年:乂安・西都の制圧

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琴彭を降した黎利は現地の住民らを慰撫してその一部を軍に加え、乂安(ゲアン)の攻略に取り掛かった[20]。明の宣宗は官吏の山寿を遣わして懐柔を試みたが、これを拒絶して乂安を攻め、計略を用いて大勝を収めた[21]。陳智らは乂安城に引き返して籠城した[22]が、翌年には黎利は兵士たちを各地の州県に派遣し、乂安城を包囲した[23]

同年4月には明の安平伯李安中国語版が水軍を率いて救援に向かったが、黎利の軍は伏兵でこれを撃退した[24]。同年5月、明軍が乂安への援軍を派遣すると、この間に西都(タイドー)城の守りが手薄になっていると見て、黎利は黎礼中国語版[注釈 4]ら精鋭2,000名を選抜して派遣し、西都城を陥落させた[25]

1426年8月、黎利は明軍の精鋭は全て乂安城に集結している点に目を付け、東都(ドンドー)周辺の各拠点はどこも手薄と見越して、それぞれに精鋭部隊を派遣して攻撃させた[26]。陳智も東関城で孤立し、乂安城を守る李安・方正らに対して、乂安城を放棄して救援に来るよう書状を送った[27]。李安・方正は蔡福ベトナム語版を城の守りに残していったが、黎利の軍はこれを破り、諸将を駐屯させて乂安城をも制圧した[28]

天慶元年:明軍の反撃

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明の朝廷は1426年10月、成山侯王通を指揮官に5万の兵と5千の騎馬を与えて派遣し、東都の諸城の救援に向かわせた[29]。明軍の兵力は既存の兵と救援の兵を合わせて10万にもおよんだ[注釈 5]

同年11月、黎利は陳朝の後裔を称する陳暠[注釈 6]を、皇帝として擁立した[32]天慶帝)。

同年12月には、黎利は兵士たちに対して略奪などの行為を禁じるとともに、自ら監督して東都城の攻撃に当たった[33]。明軍の王通・山寿らは度重なる敗戦に疲弊し、全軍の撤退を条件に和平を要請した[34]。黎利はこれを了承したが、これに対し安南の人間ながら明の統治に与していた陳封中国語版梁汝笏中国語版・陳安栄らは、明軍の撤退後、自分たちが誅殺されることをおそれ、明軍撤退の当日、明軍に対し約50年前、陳朝大越と朝が交戦した白藤江の戦いの故事を引き合いに出し、「かつて陳朝の将軍であった興道(陳国峻)は、元軍の降伏を受け入れるふりをして騙し討ちにしました」と訴え、暗に黎利が同じ意図であると唆した[35]。これを聞いた王通らは待ち伏せで却って騙し討ちにしようとしたが、黎利はこれを看破して逆に多数の兵と騎馬を拿捕した[36]

天慶2年:明軍の撤兵、再独立

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1427年9月、明の朝廷は戦況の不利を知ると、将軍の柳升に10万の兵を与えて派遣した[37]が、黎利は「明軍は遠路はるばるの到来であり、疲弊の色も濃いはずである。すぐには戦わず、さらなる疲弊を待つべきである[38]」と語り、 戦闘中の兵を引き上げ、敵を引き込んで伏兵を配置した。そして柳升の軍が支棱(現在のランソン省チーラン県)にある沼地に踏み入れたところで強襲を仕掛け、柳升を戦死させるなど大勝利を収めた[39]

同年11月22日、明軍の王通ら首脳部と独立軍は東都城の南で会盟し、長期間の包囲により疲弊していた明軍は、改めて講和を申し出た[40]。明軍の側は山寿・馬騏、独立軍の側は思斉中国語版黎仁澍中国語版・黎国禎・黎如篪らをそれぞれ相手軍に人質として送り、講和の見通しが成立した[41]。皇帝に擁立していた陳暠を明の臣下とすることを要請し、正式に冊封された。王通ら明の軍勢は本国へと帰還し、こうして安南地方は再び現地人による独立政権が形成されることとなった[42]

皇帝即位

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1428年1月10日、皇帝であった陳暠は死去した[注釈 7]

同年4月15日、黎利は首都の昇龍城で皇帝に即位し、後黎朝を創始、国号を「大越」とした。順天と改元し大赦を下した[44]

宰相阮廌らの補佐のもと、国家制度の整備を行い、均田制科挙制なども導入、諸法典の整備に取り組んだ。また、明との関係修復を図ったものの、名目上陳氏の末裔として担いだ陳暠を殺害したことや、「反乱軍の首魁」を冊封することへの抵抗感などから生じた反対論が明宮廷で大勢を占めたため、「権署安南国事」への任命に留まり、在世中は安南国王に封じられることはなかった。1433年に死去。黎元龍が継ぎ太宗となる。

逸話

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順天剣ベトナム語版(トゥアンティエン・キエム、ベトナム語Thuận Thiên Kiếm / 順天劍)と呼ばれる魔剣に関する伝説が残る。順天剣は湖に住む精霊から授けられた剣で、これを抜き放つと不思議な力により敵軍は戦意を失い、恐慌をきたして逃げ去ったという。黎利は順天剣を振るい明との戦争を勝ち抜いて後黎朝大越を建国した。戦後順天剣は精霊の使いである黿に託され、湖へと返還された。その湖はホアンキエム(還剣)湖と呼ぶようになった。

脚注

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注釈

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  1. ^ なお同巻では「帝」は黎利を、「明帝」は当時の明の皇帝を指す。
  2. ^ 古代中国の楚漢戦争の際に、後のの創始者の劉邦を包囲から逃がすため自ら囮となり処刑された。
  3. ^ 力の限り戦えば生き延びられ、戦わなければ命を落とす、これこそが死地である
  4. ^ もとの姓は丁で、黎利より姓を与えられた。
  5. ^ また王通は現地の建造物であった亀田鐘と普明鼎を溶かして、銃火器の鋳造に用いるなどした[30]
  6. ^ 『大越史記全書』によれば、元々は胡翁という名の物乞いであり、明の支配の打破による民衆の救済の旗印として、一時的に権力を託した、とされる[31]
  7. ^ 『大越史記全書』では「陳暠飲毒卒」と庶民が死去した際に用いる「卒」の語を用いられるなど、その帝位の正統性を否定されており、また「群臣らは皆、『陳暠は民に対して何の功もなく、至尊の座には相応しくない』と上奏したが、帝(黎利)はそれには忍びなく陳暠を厚く遇した。しかし陳暠は人々の不満を知ると船で亡命しようとしたが、途中で捕縛され服毒自殺した」と記される[43]。後の注釈などでは、黎利が命じて手を下したとの説も記されている。

出典

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  1. ^ . "以陳昌符九年乙丑八月初六日,生帝于雷陽主山郷。" 
  2. ^ 『大越史記全書』 10巻。「帝智識過人,明而能剛,不爲官爵所誘,威勢所怵。明人巧計百端,終不能致也。」 
  3. ^ 『大越史記全書』 10巻。「帝見其懦弱,又耽于酒色,知事不成,乃晦迹山林,潜心韜略,延攬智謀之士,招集流離之民,奮起義兵,欲除大亂。」 
  4. ^ 「太宗文皇帝実録」『明実録』 196巻。「利初從陳季擴反,充偽金吾將軍,後束身歸降,以為巡檢,然中懷反側。」 
  5. ^ 『大越史記全書』 10巻。「戊戌明永樂十六年春正月庚申,帝起兵於藍山。」 
  6. ^ Việt Nam sử lược. 14. "Đến mùa xuân năm mậu-tuất (1418) đời vua Thành-tổ nhà Minh, niên-hiệu Vĩnh-lạc thứ 16, ông Lê Lợi cùng với tướng là Lê Thạch và Lê Liễu khởi binh ở núi Lam-sơn tự xưng là Bình-định-vương" 
  7. ^ 『大越史記全書』 10巻。「是月初九日,明内臣馬騏等大舉兵,逼帝於藍山。帝乃退兵,屯洛水設伏以待之。十三日,騏等果至。帝大縱伏兵,衝撃賊軍。」 
  8. ^ Việt Nam sử lược. 14. "Quan nhà Minh biết rằng Chí-linh là chỗ Bình-định-vương lui tới, bèn đem binh đến vây đánh. Vương bị vây nguy-cấp lắm, mới hỏi các tướng rằng: có ai làm được như người Kỷ Tín ngày trước chịu chết thay cho vua Hán Cao không? Bấy giờ có ông Lê Lai liều mình vì nước, xin mặc thay áo ngự bào cưỡi voi ra trận đánh nhau với giặc. Quân nhà Minh tưởng là Bình-định-vương thật, xúm nhau lại vây đánh, bắt được giết đi rồi rút quân về Tây-đô." 
  9. ^ 『大越史記全書』 10巻。「二月,明總兵豐城侯李彬發疽死。」 
  10. ^ 『大越史記全書』 10巻。「冬十二月,帝進屯關耶。哀牢又以明人相約,腹背交攻,我軍多傷死。乃潜退塊冊,纔七日,明人大舉兵圍之。帝謂將士曰:「賊四面圍我,欲去何適所,兵法所謂『死地也,疾戰則存,不疾戰則亡』。」言出涙下。將士皆感激,争戰殊死。黎領、黎問、黎豪、黎篆等身先陷陣,斬獲明参將馮貴及其眾千餘級,獲馬百匹。馬騏、陳智僅以身免,奔走東關,哀牢亦遁。帝回駐至靈山。軍士絶粮二月餘,惟食菜根蔬笋而已。」 
  11. ^ Việt Nam sử lược. 14. "Sang năm sau là năm nhâm-dần (1422) Bình-định-vương tự đồn Ba-lậm tiến lên đánh đồn Quan-gia, bị quân Minh và quân Lào hai mặt đánh lại, phải thua chạy về giữ đồn Khôi-sách. Quân Minh và quân Lào thừa thế đổ đến vây kín bốn mặt. Vương thấy thế nguy quá, mới bảo các tướng rằng: « Quân giặc vây kín rồi, nếu không liều sống chết đánh tháo lấy đường chạy ra, thì chết cả! » Quân-sĩ ai nấy đều cố sức đánh phá, quân giặc phải lùi. Vương lại đem quân về núi Chí-linh." 
  12. ^ 『大越史記全書』 10巻。「帝殺象四隻及所乗馬,以饗軍士。然往往猶有逃亡者,帝乃嚴加束約,捕得逃亡者,斬之以徇軍,復整粛如故。時屢經多難,軍士疲勞,欲得休息,皆勸帝與賊和親。帝不得已,遂以賊將山壽、馬騏、陳智等佯爲和好,以安眾心。」 
  13. ^ 『大越史記全書』 10巻。「癸卯明永樂二十一年夏四月十四日,帝復領眾回藍山。」 
  14. ^ 『大越史記全書』 10巻。「明参將陳智,内官山壽等多遺牛馬魚鹽及穀種農器以誘之。帝亦遣臻等以金銀報,而潜爲之備。」 
  15. ^ 『大越史記全書』 10巻。「智等知帝意,外托和親,内有掩襲之志,乃拘臻等不還。」 
  16. ^ 『大越史記全書』 10巻。「帝怒,遂絶之。將士發憤,皆誓死戰。」 
  17. ^ 『大越史記全書』 10巻。「冬十一月二十一日,皇子元龍生。」 
  18. ^ 『大越史記全書』 10巻。「琴彭知援不至,開門出降,茶麟州平。帝令軍中曰:「彭已降,秋毫勿犯,必赦其罪,不戮一人。」後琴彭謀反,帝乃誅之。」 
  19. ^ 『明史』 289巻。「宣宗馳勅責榮昌伯陳智等曰:「茶籠守彭被困孤城,矢死無貳,若等不援,將何以逃責!急發兵解圍,無干國憲。」勅未至而城陷,彭死之。詔贈交趾左布政使,送一子京師官之。」 
  20. ^ 『大越史記全書』 10巻。「帝慰撫部落,(中略)帝欲攻乂安城而未知情勢。」 
  21. ^ 『大越史記全書』 10巻。「會明帝初立,使内官山壽以詭詞諭帝。帝知其意,曰:「敵使誑我,我因其敵間而用之,此其時也。」遂復通往來,覘其虚實,以圖襲乂安。(後略)」 
  22. ^ 『大越史記全書』 10巻。「帝乗勝長驅,三日直抵城下。智等入城固守。」 
  23. ^ 『大越史記全書』 10巻。「於是分兵略地,所至州縣,皆望風歸附,相與併力圍乂安城,賊堅壁不敢復出。」 
  24. ^ 『大越史記全書』 10巻。「夏四月,明参將安平伯李安引水軍自東關來救。(中略)十七日,智等悉眾出戰,黎利乗軍半渡,伏兵奮撃,大破之,斬首千餘級,溺死者甚眾。」 
  25. ^ 『大越史記全書』 10巻。「時賊眾來救乂安,帝料西都諸城悉以虚弱,又選精兵二千,(中略)遂圍其城。」 
  26. ^ 『大越史記全書』 10巻。「秋八月,帝以賊之精兵盡在乂安,其東都各處必已虚弱,(中略)司空黎禮及黎熾等領精兵継進,以張其勢。」 
  27. ^ 『大越史記全書』 10巻。「明参將陳智以東關城孤危,增壘鑿壕,爲固守計,乃馳書李安・方正等,使棄乂安城,還救根本。」 
  28. ^ 『大越史記全書』 10巻。「九月十七日,李安・方正等棄乂安,浮海趍還東關,正留蔡福守乂安城。帝進撃城外,破之。(中略)黎國興等圍乂安城駐營。」 
  29. ^ 『大越史記全書』 10巻。「冬十月,明命總兵成山侯王通,参將馬瑛等領兵五萬人,馬五千疋,分道出援東都諸城。」 
  30. ^ 『大越史記全書』 10巻。「明王通等以𡨧洞之敗,軍噐殆盡,乃毀龜田鍾、普明鼎爲銃磾火器。」 
  31. ^ 『大越史記全書』 10巻。「先是有胡翁者,乃丐者之子,竄身於琴貴,假稱陳氏之後。頔時國人苦賊苛政,思得其主,而帝急於滅賊救民,遂使人迎立,以權一時之事。」 
  32. ^ 『大越史記全書』 10巻。「冬十一月,帝得陳暠,立之。」 
  33. ^ 『大越史記全書』 10巻。「十二月,禁剪花果木樹,刧掠財産者。帝親督將士,日夜擊東都城。」 
  34. ^ . "明王通、山壽等隨戦隨敗,心沮氣䘮,計窮援絶,勢日窮蹙,乃遣人賫書乞和,願得全眾㱕國。" 
  35. ^ 『大越史記全書』 10巻。「時僞都司陳封,参政梁汝笏,都指揮陳安榮等,業以賣國,取賊高官,恐賊㱕後必無生理,陰行反間曰:「昔烏馬兒軍敗於白藤江,率眾來降,興道大王許之,以計取大艦装載送還國,又令善氽者以充艦夫。至海外夜間,伺其睡熟,乃入水中鑚刻艦底,賊皆溺死,無一生还者。」」 
  36. ^ 『大越史記全書』 10巻。「通等信之,相與簧惑,復生異心,增築複壘,掘壕設籖,以爲偷生之計。(中略)虜獲賊哨三千餘人,馬五百餘匹。自是明人閉城不出,來使遂絶。」 
  37. ^ 『大越史記全書』 10巻。「明總兵征虜副將軍太子太傅安遠侯柳昇,(中略)土官右布政使阮徳勛領兵十萬餘,(後略)」 
  38. ^ 『大越史記全書』 10巻。「帝會諸將議曰:「(前略)今柳昇之來,途路遼遠,人必疲勞。吾以逸待勞,蔑不勝矣。」」 
  39. ^ 『大越史記全書』 10巻。「賊軍大敗,斬柳昇於馬鞍山,及賊眾一萬餘級。」 
  40. ^ 『大越史記全書』 10巻。「二十二日,帝與明總兵官太子太保成山侯王通,(中略)僉事郭端會盟于城之南。期以十二月十二日班師,仍差人賫本,請還我土守。時通等在城困迫,所恃者援兵,又爲我所敗,故講和乞㱕。」 
  41. ^ 『大越史記全書』 10巻。「於是明以山壽、馬騏出菩提營爲質於帝。帝亦令司徒思齊及黎仁澍入東關城爲質於明,卒成和約。初帝以黎國禎、黎如篪爲質。至是欲得山壽、馬騏來會,故遣思齊、仁澍同往。」 
  42. ^ 『大越史記全書』 10巻。「既遣羅汝敬等賫書,封陳暠爲安南國王,罷征南,命通等北回還,我安南地方朝貢復依洪武舊制,許通史徃來。」 
  43. ^ 『大越史記全書』 10巻。「十日,陳暠飲毒卒。時群臣皆上疏,言陳暠無功於民,何以居人上,宜早除之。帝自知其然,而心有不忍,遇之益厚。暠知國人不服,乃潜駕海船,迯入玉麻州,至麻港,官軍追及獲之,回至東関城,飲毒卒。」 
  44. ^ 『大越史記全書』 10巻。「十五日,帝即位于東京,大赦,改元順天,建國號大越。都東京。」 

参考文献

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  • 酒井良樹「レ・ロイ」『アジア歴史事典 9』平凡社、1984年、348頁。 
  • 小林知生「太祖(安南黎朝)」『東洋歴史大辞典 中巻』(縮刷復刻版)臨川書店、1941年。ISBN 465301471X 
  • 京都大学文学部東洋史研究室 編「黎利」『東洋史辞典』東京創元社、1974年、908頁。ISBN 4488003109 
先代
後黎朝皇帝
初代:1428年 - 1433年
次代
太宗