レネ・イギータ
ホセ・レネ・イギータ・サパタ(José René Higuita Zapata, 1966年8月28日 - )は、コロンビア・メデジン出身の元サッカー選手。元コロンビア代表。現役時代のポジションはゴールキーパー。
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2007年のイギータ | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
ホセ・レネ・イギータ・サパタ José René Higuita Zapata | |||||
愛称 | エル・ロコ(狂人) | |||||
ラテン文字 | Rene Higuita | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | コロンビア | |||||
生年月日 | 1966年8月28日(58歳) | |||||
出身地 | メデジン | |||||
身長 | 172cm | |||||
体重 | 80kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | GK | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1985 | ミジョナリオス | 16 | (7) | |||
1986-1992 | アトレティコ・ナシオナル | 112 | (1) | |||
1991-1992 | レアル・バリャドリード | 15 | (2) | |||
1994-1997 | アトレティコ・ナシオナル | 69 | (1) | |||
1997-1998 | ベラクルス | 30 | (2) | |||
1999-2000 | インデペンディエンテ・メデジン | 20 | (11) | |||
2000-2001 | レアル・カルタヘナ | 21 | (0) | |||
2001-2002 | アトレティコ・ジュニオール | 4 | (0) | |||
2002-2003 | デポルティーボ・ペレイラ | 13 | (0) | |||
2004 | アウカス | 35 | (3) | |||
2005 | バホ・カウカ | 13 | (1) | |||
2007 | グアロス | 10 | (5) | |||
2008 | デポルティーボ・リオネグロ | 10 | (3) | |||
2008-2009 | デポルティーボ・ペレイラ | 12 | (5) | |||
代表歴 | ||||||
1987-1999 | コロンビア | 68 | (8) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
長らくコロンビア代表のシンボルともいえる存在だった[1]。ペナルティエリア外へ飛び出し、相手のスルーパスをカットするスイーパー的な役割を担ったり、ドリブルで敵陣深く攻め上がり決定機を生み出すパスを供給するなど、それまで存在しなかった様な、全く新しいGKであった[1]。
経歴
編集選手歴
編集クラブ
編集少年期にはFWを務めていたが、ある日欠場した選手の代わりにGKを務めたことからGKとしてプレーする様になった[1]。選手生活の大半をコロンビア・プロサッカーリーグのナシオナル・メデジンで過ごし、同チームの幾多のリーグ優勝に貢献した。1989年にはコパ・リベルタドーレス決勝では4本のPKを止め[2]、自らはPKを成功させ優勝に大きな役割を果たした[1]。また大会中は2ゴールを決めた[1]。同年12月のトヨタカップに出場。当時世界最強と言われたACミランと対戦し、延長戦の末に0-1で敗れた。
2007年にはベネズエラのグアロスFCと契約を結び、40歳で現役復帰した[3]。翌年はコロンビアに戻りデポルティーボ・ペレイラに所属していたが、2010年1月に再び現役を退いた[4][5]。
代表
編集コロンビア代表の一員としても長年に渡ってプレーし、68試合に出場した。しばしばセットプレーにおけるキッカーを担当し、フリーキックとペナルティーキックから8得点を記録している。
1990年のワールドカップ・イタリア大会決勝トーナメント1回戦カメルーン戦では、ハーフウェー付近でロジェ・ミラをドリブルでかわそうとして逆にボールを奪われ、ゴールを決められるというミスを犯した。試合後、シュートの瞬間に真後ろからミラの足めがけてスライディングにいったことも含め非難を受けたが、本人は「まったく後悔していない」とコメントした。
1995年9月、イングランド代表との親善試合で、イギータは両足を揃えて飛び上がり、海老反りになって頭越しにボールをかかとで蹴り返し、ジェイミー・レドナップのループシュートを防いだ。これは、スコーピオンキックと呼ばれている。
指導歴
編集2008年12月、以前所属していたレアル・バリャドリードのゴールキーパーコーチに就任した[6]。
私生活
編集1993年6月4日、麻薬王パブロ・エスコバルによって麻薬組織の大物カルロス・モリーナの娘が誘拐された事件に介入し、逮捕された(後に冤罪と判明)。犯人グループへ身代金を渡したことの報酬として6400ドルを受け取ったため、事件から利益を得ようとする犯罪であるとして、7か月間投獄された。長期間、刑務所に収監されていたため、1994 FIFAワールドカップに出場できなかった。南米予選においてアルゼンチンに圧勝したことなどからコロンビアは優勝候補に挙げられていたが、イギータを失った同国はグループリーグで敗退した。
2004年11月29日、コカイン陽性反応により逮捕された[7]。
2005年、サバイバーに似たテレビ番組 La isla de los famosos: Una aventura pirata (有名な島: 海賊アドベンチャー) に参加した。
2008年4月、コロンビア代表のコーチ就任を希望し、活発に政治的な活動をしたいと表明した[8]。
2009年11月、イギータの息子 Cristian Andres Higuita は、コロンビア1部リーグデポルティーボ・カリに所属し、南アメリカU-15 (Sudamericano Sub-15) に選出された[9]。
その他
編集メデリン時代にイギ-タを指導したフランシスコ・マツラナは、「やみくもにペナルティーエリアを飛び出したりする訳では無く、彼なりの考えがあってのことだろう。」と述べていた[10]。
脚注
編集- ^ a b c d e トヨタカップ 1989年 大会公式プログラム p.38-39
- ^ “最強ミランと渡り合ったナシオナル・メデジン サッカー世界遺産第15回”. サッカーマガジン (2020年5月16日). 2022年3月16日閲覧。
- ^ http://home.skysports.com/list.aspx?hlid=478344&CPID=103&clid=&lid=2&title=Higuita+returns+to+football[リンク切れ]
- ^ Tormann Rene Higuita geht nicht mehr auf Torjagd Archived 2013年5月15日, at the Wayback Machine. kleinezeitung.at 2010.1.19付記事
- ^ Vickery, Tim The legacy of Rene Higuita BBS Sports 2010.2.1付
- ^ "Rene Higuita, nuevo preparador de porteros " Archived 2009年9月17日, at the Wayback Machine. elvalladolid.com 2008.12.28付記事
- ^ "Rene Higuita failed a drug test" BBS Sports 2004.11.29付記事
- ^ "Higuita wants to return to Colombia’s national team" Colombia Reports 2008.4.1付記事
- ^ Colombia inicia con goleada su participacion en Torneo de Las Americas colfutbol.org 2009.11.27付記事
- ^ トヨタカップ 1989年 大会公式プログラム p.47