レオン・ヴォイジコフスキ

レオン・ヴォイジコフスキフランス語: Léon Woïzikovskyポーランド語: Leon Wójcikowski レオン・ヴイチコフスキ1899年2月20日 - 1975年2月23日)は、ポーランド出身のバレエダンサー 、振付師[1]バレエ・リュスに参加して名声を確立し、後に世界中の様々なバレエ団と共演した。

伝記

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ワルシャワ出身。ワルシャワ大劇場エンリコ・チェケッティ[2]にダンスを学び、キャラクター・ダンスで頭角を現すようになった。

1915年にバレエ・リュスに加わる。加入時は、レオニード・マシーンが振付師であり、マシーンの指導下で、ガブリエル・フォーレの音楽による《ラス・メニナス》(1916年)、エリック・サティの《パラード》(1917年)、アナトーリ・リャードフの《ロシア物語》、ドメニコ・スカルラッティの原曲による《上機嫌なご婦人たち》(1917年)、マヌエル・デ・ファリャの《三角帽子》(1919年)、ドメニコ・チマローザの原曲による《女の手管》(1924年)やジョルジュ・オーリックの《船乗りたち》(1925年)などに出演。また、ブロニスラヴァ・ニジンスカの振付により、イーゴリ・ストラヴィンスキーの《結婚》(1923年)、ダリウス・ミヨーの《青い列車》(1924年)、オーリックの《パストラル》(1926年)などの上演に参加した。30歳の時にディアギレフが亡くなり、バレエ・リュスは解散した[1]

バレエ・リュスの解散後、アンナ・パヴロワのバレエ団に参加したが、これもパヴロワの死と共に解散している[1]

その後、バレエ・リュス・ド・モンテカルロジョージ・バランシンやマシーンらと共に契約。アンリ・マティスの舞台美術によってバレエ《子供の遊戯》(1932年)でイリーナ・バロノヴァと共演したが、マシーンとの仲が険悪になり、1934年にバレエ・リュス・ド。モンテカルロを退団した。

1930年代初頭、他のロシアのバレエダンサーと一緒に、ロンドンのヴィク・ウェルズやニネット・ド・ヴァロワと共演し、これがロイヤル・バレエ団の先鞭となった。

1934年に、自身のバレエ団を立ち上げ、コスティア・コンスタンティノフの《ポート・サイド》やファリャの《恋は魔術師》を上演。1935年と翌年にはロンドンとパリで公演を行った。

1936年には、バジル大佐のバレエ団と一緒にニュージーランドに公演に行って成功を収めた。1938年にはワルシャワに新設されたバレエ団「ポロネーズ」のディレクターとなり、1939年には同団を連れて世界博覧会に参加。第二次世界大戦が勃発するとフランスに行き、バジル大佐のバレエ団に合流し、アメリカ・ツアーに参加。1945年にはワルシャワに戻り、ワルシャワ大劇場のオペラ・スクールでダンスの講師を務めた。

その後、彼はロンドン祝祭バレエのダンスマスターとしてストラヴィンスキーの《ペトルーシュカ》等の振付を担当し、ケルン・バレエ団やフランドル王立バレエ団の振付も担った。 1960年代半ばまで、ケルン歌劇場のダンス研究所で後進の指導に当たり、1974年までボン大学で教えた。それからワルシャワに戻り、ワルシャワ・オペレッタ劇場で教鞭をとった[1]

脚注

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  1. ^ a b c d Балет. Энциклопедия, СЭ, 1981. “Вуйциковский (Wojcikowski) Леон” (ロシア語). 2018年12月26日閲覧。
  2. ^ Russian Ballet History. “Diaghilev's Ballets Russes 1909-1929” (英語). 2018年12月26日閲覧。

参考文献

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  • Lynn Garafola (1989). Diaghilev's Ballets Russes. Da Capo Press. ISBN 9780306808784
  • Lynn Garafola, Nancy Van Norman Baer, Nancy Baer (1999). The Ballets Russes and Its World. Yale University Press. ISBN 9780300061765