ルートヴィヒ・トゥイレ
ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・アンドレアス・マリア・トゥイレ(Ludwig Wilhelm Andreas Maria Thuille [ˈtui̯lə], 1861年11月30日 南部チロル・ボルツァーノ - 1907年2月5日 ミュンヘン)は、オーストリア出身のドイツの音楽教育家・作曲家。テュイレの表記もあるが、本来はフランス系のユグノーの家系でテュイユと読む。ブラウンフェルスやシリングスらと共に、若き日のR.シュトラウスやプフィッツナーもその一員とされた「ミュンヘン楽派」の代表者とされる[1]。
ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・アンドレアス・マリア・トゥイレ | |
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基本情報 | |
生誕 | 1861年11月30日 |
出身地 | オーストリア帝国、ボルツァーノ |
死没 |
1907年2月5日(45歳没) ドイツ帝国 バイエルン王国、ミュンヘン |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 音楽教育家・作曲家 |
経歴
編集幼児期に両親を喪い、おじを頼ってオーストリアに出る。インスブルックで学問を修め、1877年に終世の友リヒャルト・シュトラウスと知り合う。その後ミュンヘンでヨーゼフ・ラインベルガーらに作曲を師事。その後ミュンヘン音楽アカデミー(現ミュンヘン音楽・演劇大学)の楽理科ならびに作曲科の教授に就任し、数多くの門弟を育成した。主要な門人に、ヘンリー・ハドリー、リヒャルト・ヴェッツ、フランツ・ミコライ、ヴァルター・クルヴォワジエール、ヘルマン・アーベントロート、ユリウス・ヴァイスマン、ヴァルター・ブラウンフェルス、エルンスト・ベーエ、エルネスト・ブロッホ、クラウス・プリングスハイムらがいる。
1907年、ミュンヘンで心不全のため45歳で没した。死後出版された音楽理論書『和声学』(Harmonielehre, ルードルフ・ルイスとの共著、日本語版は山根銀二と渡鏡子の共訳による。ASIN B000JB6XM4)は多くの版を重ね、非常に影響力があった。
トゥイレは室内楽に献身した多作な作曲家であり、こんにちではピアノと管楽器のための《六重奏曲》作品6(1886年 - 1888年)や《チェロ・ソナタ》作品22の作曲家として辛うじて知られているにすぎないが、《交響曲ヘ長調》や《ピアノ協奏曲》のような大作のほか、数々のリートや、3つのオペラも作曲している。このうち最初の《トイアーダンク》(Theuerdank, 1897年完成)[2]は、1897年に、バイエルン王国摂政王子主催のオペラ作曲コンクールにおいて、ツェムリンスキー作曲の《ザレマ》を抑えて首席に輝いた。2作目の《愛の舞踊》(Lobetanz)は1898年にカールスルーエにて初演され、かなり成功した。最後のオペラは、1901年の《Gugeline》である。リヒャルト・シュトラウスとの親交や楽劇への献身にもかかわらず、トゥイレはかなり保守的な作曲家のままであり続けた。
脚注
編集- ^ 長木誠司著 『前衛音楽の漂流者たち』 筑摩書房、1993年、13頁。ISBN 4-480-87231-0
- ^ 同名の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世による自伝的英雄寓話を原作としている。