ルパート・ジュリアンRupert Julian, 1879年1月25日 - 1943年12月27日)は、ニュージーランド出身のアメリカ合衆国俳優映画監督脚本家映画プロデューサーである。

ルパート・ジュリアン
Rupert Julian
Rupert Julian
ルパート・ジュリアン(1923年)。
本名 Thomas Percival Hayes
生年月日 (1879-01-25) 1879年1月25日
没年月日 (1943-12-27) 1943年12月27日(64歳没)
出生地 ニュージーランドの旗 ニュージーランド ファンガロア
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス市ハリウッド
職業 俳優映画監督脚本家映画プロデューサー
ジャンル サイレント映画トーキー
活動期間 1911年 - 1930年
配偶者 エルシー・ジェーン・ウィルソン
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人物・略歴

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1879年(明治12年)1月25日、ニュージーランドのファンガロアに「トーマス・パーシヴァル・ヘイズ」(Thomas Percival Hayes)として生まれる。

最初のキャリアは、生誕の地であるニュージーランド、そしてオーストラリアでの舞台出演や映画出演であった。1911年(明治44年)にアメリカ合衆国に移民し、ユニバーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)でサイレント映画の俳優としてのキャリアを開始する。

1915年(大正4年)に監督に転向し、妻のエルシー・ジェーン・ウィルソンをしばしば演出した。1916年(大正5年)に設立されたユニバーサル社の子会社ブルーバード映画で監督した映画は、衣笠貞之助[1]ら初期の日本映画の作り手に影響を与えた[2]

1923年(大正12年)、エリッヒ・フォン・シュトロハイムが更迭された『メリー・ゴー・ラウンド』を完成させた。1924年(大正13年)にはロン・チェイニー主演の『オペラの怪人』を監督したが、1925年の公開直前に降板した。スタジオは映画完成のために他の監督を雇い、エンディングを変えた。

トーキーの登場とともに仕事が減少し、1930年(昭和5年)に『猫は這い寄る』、『愛の訪れ』を発表したのを最後にキャリアは途絶えた。

1943年(昭和18年)12月27日カリフォルニア州ロサンゼルス市ハリウッドで死去した。満64歳没。死因は不明。同州グレンデールのフォレスト・ローン・メモリアル・パークに眠る。

おもなフィルモグラフィ

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特筆以外は監督作である。

関連事項

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  1. ^ 『わが映画の青春 - 日本映画史の一側面』、衣笠貞之助中公新書、1977年、p.26-27.
  2. ^ 日本映画発達史 I 活動写真時代』 、田中純一郎中公文庫、1975年12月10日 ISBN 4122002850, p.257-261.

外部リンク

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