ルイーズ・フェリシテ・ヴィクトワール・ドーモン(Louise Félicité Victoire d'Aumont, duchesse de Mazarin, 1759年10月22日 - 1826年12月13日)は、フランスの貴族女性、モナコ公家に嫁ぎ、離婚するまではルイーズ・ド・モナコ(Louise de Monaco)と名乗った。

ルイーズ・ドーモン
Louise d'Aumont
マザラン女公
在位 1781年 - 1826年

称号 マイエンヌ女公、ラ・メユレ女公
出生 (1759-10-22) 1759年10月22日
フランス王国パリ
死去 (1826-12-13) 1826年12月13日(67歳没)
フランス王国、パリ
配偶者 モナコ公世子オノレ(4世)
  ルネ・フランソワ・ティルナン=ダルシ
子女 オノレ5世
フロレスタン
家名 オーモン家
父親 オーモン公ルイ・マリー・ドーモンフランス語版
母親 マザラン女公ルイーズ・ジャンヌ・ド・デュルフォールフランス語版
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ペール・ラシェーズ墓地39区画にあるルイーズの墓廟

生涯

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オーモン公ルイ・マリー・ドーモンフランス語版と、マザラン女公ルイーズ・ジャンヌ・ド・デュルフォールフランス語版の間の一人娘。オルタンス・マンチーニの玄孫であった母親から数多の爵位と所領を相続する。マザラン公爵[1]マイエンヌ公爵、ラ・メユレ公爵、フェレット英語版伯爵、ベルフォール伯爵、タン伯爵、ローズモン英語版伯爵、アルトキルシュ男爵、シャトー=ポルシャン英語版公、ギスカール英語版侯爵、イサネン英語版領主、ロンジュモー伯爵、シリー英語版侯爵およびマシー男爵であり、これらは全て婚家のモナコ公家に継承された。

1777年7月15日、モナコ公世子オノレ(4世)と結婚した[1]。ルイーズの相続する莫大な資産目当ての結婚だったが[2]、彼女の資産の多くは抵当に入っており、さらにルイーズのギャンブル好きと衣装道楽のせいでモナコ公家の財政はさらに赤字となった[2]。夫婦仲も険悪で、子が生まれるとすぐに別居した[2]

モナコは1793年2月14日フランスに併合された[3]。義弟のモナコ公子ジョゼフヴァンデの反乱に加担していた[4]ことが原因となり、反革命容疑者法に基づき[2]、義妹マリー・テレーズ、舅、夫と共に逮捕・収監された。モナコ公家の侍医ドソルミュー(Desormeaux)がルイーズと息子たちを監獄から救出し、恐怖政治が終わるまで匿った[2]

1797年オノレ4世と正式に離婚。1801年2月6日ルネ・フランソワ・ティルナン=ダルシと再婚したが、1803年には離婚した。

子女

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最初の夫オノレ4世との間に2人の息子を儲けた[1]

また、非嫡出子の娘を1人もうけた。

  • アメリー・セレスト・エロドール・ドーモン(1794年 - 1820年)

娘のアメリーは1814年ラメスフランス語版城で、軍人のルイ=オーギュスタン・ムニエ・ド・モーロワ(1788年 - 1851年)と結婚し、3人の息子を儲けた[5]。夫はラメス城の所有者の妻フランソワーズ・アンリエット・ルグラ・ド・ボーヴェルセ(1766年 - 1842年)と、最初の夫の間の息子である。1816年、今度はルイーズの次男フロレスタンが、城主夫人フランソワーズ・アンリエットと2番目の夫との間の娘カロリーヌ・ジベールと結婚した。ルイーズは疎遠な長男ではなく次男のフロレスタンに遺産を残した[2]

引用・脚注

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  1. ^ a b c d e Edwards, Anne (2017) [1992]. "Tableau Genealogique de la Famille Grimaldi". The Grimaldis of Monaco (英語). Guilford, Connecticut: Lyons Press. p. 348. ISBN 0-688-08837-6
  2. ^ a b c d e f Anne Edwards, The Grimaldis of Monaco, 1992
  3. ^ オリヴィエ・ブランフランス語版(著)・小宮正弘(訳)『一五〇通の最後の手紙 フランス革命の断頭台から』朝日新聞社、1989年、P129。
  4. ^ ブラン、P130。
  5. ^ les premiers seigneurs d'Aumont