リッカー硬式野球部(リッカーこうしきやきゅうぶ)は、東京都に本拠地を置き、日本野球連盟に加盟していた社会人野球の企業チームである。1984年1月に解散した。運営母体は、ミシンメーカーのリッカー

リッカー硬式野球部
チーム名(通称) リッカー
加盟団体 日本野球連盟
加盟区分 企業チーム
創部 1956年
廃部 1984年
チーム名の遍歴

  • リッカーミシン (1956 - 1973)
  • リッカー (1974 - 1984)
本拠地自治体

都市対抗野球大会
出場回数 9回
最近の出場 1981年
最高成績 8強
日本産業対抗野球大会
出場回数 4回
最近の出場 1969年
最高成績 8強
社会人野球日本選手権大会
出場回数 1回
最近の出場 1980年
最高成績 2回戦敗退
全日本クラブ野球選手権大会
出場回数 ※出場資格なし

概要

編集

1956年東京都立川市を本拠地に、リッカーミシンが『リッカーミシン硬式野球部』として立ち上げた[1]。結成初年度ながら、同年の都市対抗野球に初出場を果たす。

1974年、母体の社名変更に伴い、チーム名を『リッカー硬式野球部』に改称した[2]

1980年日本選手権に初出場を果たした。

1984年1月、母体であるリッカーの業績回復に専念するため休部届が提出され[3]、その後廃部となった。

設立・沿革

編集

大会の出場歴・最高成績

編集

主な出身プロ野球選手

編集

元プロ野球選手の競技者登録

編集

かつて在籍していた選手・指導者

編集
  • 生原昭宏(アイク生原) - 選手として在籍。引退後、亜細亜大学硬式野球部監督を務めたのち、日米野球交流に尽力。没後の2002年に特別表彰にて野球殿堂入り。
  • 川本幸生内野手) - 選手として在籍。引退後、広島商業高野球部監督を務めた。
  • 菊地敏幸(捕手、内野手、監督)- 現役引退後は監督。その後は阪神スカウトとして活動。
  • 中村和久(監督)- チーム解散時の監督。以降は巨人スカウトとなった。

脚注

編集
  1. ^ “黒獅子旗をめざすもの”. 毎日新聞: p. 5. (1956年7月23日) 
  2. ^ “都市対抗野球 都予選 15チームの横顔<上>”. 毎日新聞: p. 16. (1974年6月7日) 
  3. ^ “リッカーが休部”. 毎日新聞: p. 17. (1984年2月1日) 

関連項目

編集