ラールソートの戦い
ラールソートの戦い(ラールソートのたたかい、英語:Battle of Lalsot)は、1787年7月28日にインドのラールソートにおいて、マラーターのシンディア家とラージプートの間で行われた戦闘。
ラールソートの戦い Battle of Lalsot | |||||||||
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衝突した勢力 | |||||||||
シンディア家 | マールワール王国 | ||||||||
指揮官 | |||||||||
マハーダージー・シンディア ブノワ・ド・ボアーニュ ラーネー・ハーン |
プラタープ・シング ヴィジャイ・シング ムハンマド・ベグ・ハマダーニー † ビーム・シング(戦傷) | ||||||||
戦力 | |||||||||
80,000人[1] |
30,000人(アンベール軍) 20,000人 (マールワール軍)[1] | ||||||||
被害者数 | |||||||||
甚大 | 甚大 |
戦闘に至るまで
編集1784年、マラーターの諸侯マハーダージー・シンディアはムガル帝国の摂政と軍総司令官となり[2]、その後は北インドに覇権を確立するため、ラージャスターンに進撃した。
戦闘とその後
編集1787年7月28日、マラーター軍とラージプートの連合軍はラールソートで激突した。 マラーター軍は8万、迎え撃つラージプート軍は5万だった[1]。
戦いは朝9時に始まり、日没後およそ一時間まで続いた。その戦いは激戦であり、かつての第三次パーニーパットの戦いのようであったという[3]。
この戦いはマハーダージーの敗北に終わり、甚大な損害を被った。だが、ラージプートの側も甚大で、マールワール側の武将ビーム・シングは負傷、アンベールの武将ムハンマド・ベグ・ハマダーニーが戦死している[1]。
8月8日、マハーダージーはラールソートから撤退し、ディーグへと向かった[3]。だが、この敗戦が彼に与えた影響は大きかった[2]。敗戦の結果、帝国の宮廷のムスリムらが結集してその追い落としにかかり、これによりマハーダージーは一時的に失脚した[2]。
脚注
編集参考文献
編集- フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』創元社、2009年。