ラリー・コステロ

アメリカのバスケットボール選手、ヘッドコーチ (1931-2001)

ラリー・コステロ (Larry Costello, 1931年7月2日 - 2001年12月13日) はアメリカ男子プロバスケットボールリーグNBAの元選手、指導者。出身地はニューヨーク州ミノア、出身大学はナイアガラ大学。選手としてはフィラデルフィア・76ers1967年の優勝に貢献し、ヘッドコーチとしてはミルウォーキー・バックス1971年の優勝に導いた。2022年、功労者部門でバスケットボール殿堂入り。

ラリー・コステロ
Larry Costello
故人
ポジション PG
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 1931年7月2日
没年月日 (2001-12-13) 2001年12月13日(70歳没)
出身地 ニューヨーク州ミノア
身長(現役時) 185cm (6 ft 1 in)
体重(現役時) 84kg (185 lb)
キャリア情報
出身 ナイアガラ大学
ドラフト 1954年 12位
選手経歴
1954-1955,
1956-1957
1957-1965,
1966-1968
フィラデルフィア・ウォリアーズ

シラキューズ・ナショナルズ/フィラデルフィア・76ers
指導者経歴
1968-1976
1978-1979
ミルウォーキー・バックス
シカゴ・ブルズ
受賞歴

選手時代

コーチ時代

Stats ウィキデータを編集 Basketball-Reference.com
Stats ウィキデータを編集 NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten

選手キャリア

編集

ラリー・コステロことローレンス・ロナルド・コステロは大学時代をナイアガラ大学で過ごした。シエナ大学との試合では6回の延長を繰り返す激闘を演じ、この試合でコステロは69分40秒間を戦い抜き、チームを勝利に導いた。この試合でのコステロのプレイがあまりにも印象的だったため、チームは彼の背番号を『24』から『69』に変えさせている。大学時代のチームメイトには、ヒュービー・ブラウンがいる。

NBAキャリア

編集

大学卒業後、1954年のNBAドラフトフィラデルフィア・ウォリアーズから2巡目全体12位指名を受けてNBA入りした。ウォリアーズでは兵役に就いていた期間を除いて2シーズンのみプレイし、1957-58シーズンシラキュース・ナショナルズに移籍する。コステロは彼の故郷のフランチャイズチームであり、後にフィラデルフィア・76ersと名前を変えるこのチームで、1968年に引退するまでの10シーズンを過ごすことになる。

ウォリアーズでの2シーズンは平均7.3得点と脇役の一人に過ぎなかったが、ナショナルズではチームの主力選手として活躍し、移籍1年目の1957-58シーズンは14.9得点5.3リバウンド4.4リバウンドと大きく成績を伸ばした。1958-59シーズンにはキャリアハイとなる15.8得点を記録して、オールスターにも初選出されている。また1961年12月18日のボストン・セルティックス戦ではフィールドゴール13本、フリースロー6本全てを成功させ、32得点を記録している。

当時のナショナルズはドルフ・シェイズハル・グリア、同期のレッド・カーらを擁するプレーオフ常連チームだったが、時代はセルティックス王朝真っ只中だったこともあり、プレーオフ途中敗退を繰り返す煮え切らない日々を過ごしていた。そして30歳を超えたコステロは次第に成績を落としていくようになり、1965年には引退を決意する。

しかしこの年にウィルト・チェンバレンが新たに加入し、76ers(1963年にナショナルズから改名)は大きく勝率を伸ばすと、新ヘッドコーチに就任したアレックス・ハナムの要請により、コステロは現役復帰を遂げた。チャンバレンやグリアに、チェット・ウォーカービリー・カニンガムと主力選手はいずれも20歳代と若いチームとなっていた76ersに、ベテランとしてのコステロの力が必要とされていた。コステロのサポートもあり、76ersは1965-66シーズンを68勝14敗と当時のNBA記録となる高勝率で切り抜けた。コステロはシーズン中にアキレス腱の断裂で戦線離脱してしまうも、プレーオフには執念で出場し、76ersはカンファレンス決勝でセルティックスを、ファイナルでコステロの古巣、ウォリアーズを破り、優勝を果たした。コステロは翌シーズンまでプレイし、今度こそ現役から完全引退した。

NBA通算成績は12シーズン706試合の出場で、8,622得点3,215リバウンド、平均12.2得点4.6アシストだった。

コーチキャリア

編集

現役引退後、コステロは東シラキュース・ミノア高校のバスケットチームでコーチに就任。同校を州タイトルに導き、最初の成功を収めると、1968年エクスパンションで新たに誕生したミルウォーキー・バックスの初代ヘッドコーチに就任した。

生まれたてのチームであるため就任1年目は27勝55敗と大きく負け越したが、これがチームにとっては幸いし、1969年のNBAドラフト1位指名権を獲得し、カリーム・アブドゥル=ジャバーを指名(バックスはドラフト指名権獲得のため、故意に負けたとも言われている)。当代随一の名選手を得たバックスはこのシーズンを56勝26敗と大躍進を果たすと、翌1970-71シーズンには名ポイントガードオスカー・ロバートソンが加わり、このシーズンは当時のNBA記録となる20連勝を含む66勝16敗を記録してプレーオフも勝ち抜き、見事に優勝を果たした。コステロにとっては選手時代と合わせて2度目の優勝だった。またチームが誕生して3年目の優勝はNBAの最短記録である。以後もバックスはジャバーを中心とした70年代屈指の強豪チームとしてリーグに君臨し続けるが、優勝はこの1回のみに留まり、そして1975年のジャバーの移籍と共に急速に衰え、コステロは1976-77シーズンを最後にコーチから解任された。1978年にはシカゴ・ブルズのヘッドコーチに就任するが、20勝36敗と振るわず、シーズン終了を待たずしてコーチから解任された。

NBAコーチ通算成績は10シーズン730試合、430勝300敗、勝率.589。プレーオフ進出は6回、ファイナル進出は2回、優勝は1回だった。

NBAを離れてからは女子プロバスケットボールリーグのミルウォーキー・ドーズのコーチを経て、1980年代からはウティカ大学のバスケチームを指導し、NCAAデビジョンIIIからデビジョンIへと格上げさせることに成功している。

業績・その他

編集
  • 選手としてのコステロは手ごわい好ディフェンダーであり、またNBAでは最後の両手でジャンプシュートを打つ選手として知られていた。シュートは正確で、2度フリースロー成功率でリーグトップに輝いている。殿堂入り選手、ディック・マグワイアは、ボブ・クージースレーター・マーティンボブ・デイヴィス、そしてコステロを彼と同時代にプレイした最も優秀なガードと評している。
  • 1961年のチームとの契約交渉の際、粘りに粘ってオーナーが提示した金額にもう500ドルを上乗せさせた。後のインタビューでコステロは500ドル上乗せさせたことをひどく悔やんでいると告白している。
  • 2001年12月13日にのため70歳で死去した。
  • 2022年、功労者部門でバスケットボール殿堂入りを果たした。
主な業績

脚注

編集

外部リンク

編集