ラド・スヒシュヴィリ
ウラジーミル・“ラド”・パヴロヴィチ・スヒシュヴィリ(ロシア語: Владимир (Ладо) Павлович Сухишвили、1888年 - 1937年7月13日)、民族名ヴラディメル・“ラド”・パヴレス・ゼ・スヒシュヴィリ(グルジア語: ვლადიმერ (ლადო) პავლეს ძე სუხიშვილი)は、グルジア人のボリシェヴィキ。
ウラジーミル・パヴロヴィチ・スヒシュヴィリ Владимир Павлович Сухишвили ვლადიმერ პავლეს ძე სუხიშვილი | |
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生年月日 | 1888年 |
出生地 | ロシア帝国チフリス県チフリス郡マムコダ |
没年月日 | 1937年7月13日 |
死没地 |
ソビエト連邦 グルジア・ソビエト社会主義共和国、トビリシ |
所属政党 |
(ロシア社会民主労働党→) ボリシェヴィキ |
在任期間 | 1930年11月20日 - 1931年9月12日 |
在任期間 | 1930年6月6日 - 11月20日 |
在任期間 | 1931年1月 - 9月 |
中央執行委員会議長 | フィリップ・マハラゼ[1] |
チフリス市ソビエト執行委員会議長 | |
在任期間 | 1923年2月7日 - 1928年2月10日 |
生涯
編集1888年、ロシア帝国チフリス県マムコダに生まれ、1904年にロシア社会民主労働党に入党した[2]。1919年にはボリシェヴィキ・チフリス委員会書記、1923年2月7日から1928年2月10日まではチフリス市ソビエト執行委議長[3]、同年9月29日から1930年5月28日まではグルジア共産党中央委書記、1928年から1931年10月13日までは中央委局および幹部会メンバー、1930年まではチフリス管区委責任書記、同年6月6日から11月20日までは中央委第三書記、同日から翌1931年9月12日までは中央委第二書記、1931年1月から9月までグルジア社会主義ソビエト共和国人民委員会議議長を務めた[2]。
全グルジア中央執行委、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国中央執行委、そしてソビエト連邦中央執行委のメンバーでもあったが[4]、国家保険部に勤めていた1937年5月6日に逮捕され、7月13日にトビリシで銃殺された[2]。その後、名誉回復がなされた[4]。
脚注
編集- ^ “Высшие органы государственной власти ССР Грузия - Грузинской ССР - Республики Грузия”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2018年4月15日閲覧。
- ^ a b c “Сухишвили Владимир Павлович”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2018年4月15日閲覧。
- ^ პავლიაშვილი, ვანო. “დედაქალაქის „მმართველობითი ანატომია“”. მთავარი 2018年4月15日閲覧。
- ^ a b “ლადო სუხიშვილი”. საქართველოს პარლამენტის ეროვნული ბიბლიოთეკა. 2018年4月15日閲覧。
党職 | ||
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先代 サムソン・マムリヤ |
グルジア共産党(ボ)中央委員会第二書記 1930年11月20日 - 1931年9月12日 |
次代 ガイオズ・デヴダリアニ |
先代 なし |
グルジア共産党(ボ)中央委員会第三書記 1930年6月6日 - 11月20日 |
次代 ガイオズ・デヴダリアニ |
公職 | ||
先代 フィリップ・マハラゼ |
人民委員会議議長 1931年1月 - 9月 |
次代 ゲルマン・ムガロブリシュヴィリ |
先代 ラド・ドゥンバゼ |
チフリス市ソビエト執行委員会議長 1923年2月7日 - 1928年2月10日 |
次代 イヴァン・ボルクヴァゼ |