ユーグ8世・ド・リュジニャン
ユーグ8世・ド・リュジニャン(Hugues VIII de Lusignan, 1100年ごろ - 1171年以降)は、リュジニャン領主、クエ領主およびシャトー=ラルシェ領主(在位:1151年 - 1165/71年)。十字軍に参加し、ハリムの戦いで捕らえられ、捕虜のまま死去した。
ユーグ8世・ド・リュジニャン Hugues VIII de Lusignan | |
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リュジニャン領主 | |
ヌールッディーンを追うユーグ・ド・リュジニャンとジョフロワ・マルテル | |
在位 | 1151年 - 1171年以降 |
出生 |
1100年ごろ ポワトゥー |
死去 |
1171年以降 聖地 |
配偶者 | ブルゴーニュ・ド・ランソン |
子女 | 一覧参照 |
家名 | リュジニャン家 |
父親 | ユーグ7世・ド・リュジニャン |
母親 | サラシーヌ・ド・ルゼ |
生涯
編集ユーグ8世は、ユーグ7世とサラシーヌ・ド・ルゼの長男としてポワトゥーで生まれた[1]。タイユブール領主ジョフロワ・ド・ランソンとその妻フォスフィー(ファルシフィー)・ド・モンコントゥールの娘フォントネー女領主ブルゴーニュ・ド・ランソンと結婚し[2]、ユーグもフォントネー領主となったが、ブルゴーニュは1169年4月11日に亡くなった。ユーグはジュアレンヌの領地を放棄し、特許状でヌアイユ修道院の領地とした[3]。
1163年、ユーグ8世は十字軍に参加するため聖地へ向かったが、ハリムの戦いに参加しそこで捕虜となった[4]。ユーグ8世は捕囚の身で死去した[4]。
子女
編集ユーグ8世とブルゴーニュの間に以下の子女が生まれた。
- ユーグ(1141年頃 - 1169年) - 1164年からリュジニャンの共同統治者[2]。1162年にオレンガルド(1169年没)と結婚し、2男をもうけた。
- ロベール(1150年頃没) - 早世
- ジョフロワ(1150年以前 - 1216年5月)[2] - 結婚によりモンコントゥール、スービーズ、ヴーヴァンおよびメルヴァンの領主、ヤッファおよびアスカロン伯(1191年7月28日 - 1193年)
- ピエール(1155年以前 - 1174年12月以降)
- エメリー(1145年 - 1205年) - キプロス王、エルサレム王[2]
- ギー(1159年 - 1194年) - エルサレム王、キプロス王[2]
- ギヨーム(1163年以降 - 1208年以前) - 1186年にエデッサ伯ジョスラン3世の娘ベアトリクス・ド・クルトネーと婚約したが、結婚は行われなかった。
脚注
編集- ^ Painter 1957, p. 38.
- ^ a b c d e f g Painter 1955, p. 376.
- ^ Painter 1957, p. 40.
- ^ a b Handyside 2015, p. 72.
参考文献
編集- Painter, Sidney (1955). “The Houses of Lusignan and Chatellerault 1150-1250”. Speculum (The University of Chicago Press) 30 (3 July). doi:10.2307/2848076. JSTOR 2848076.
- Painter, Sidney (1957). “The Lords of Lusignan in the Eleventh and Twelfth Centuries”. Speculum (The University of Chicago Press) 32, No. 1,(Jan.): 27–47. doi:10.2307/2849244. JSTOR 2849244.
- Handyside, Philip (2015). The Old French William of Tyre. Brill
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