ユグルンチ・カヤ
ユグルンチ・カヤ(モンゴル語: Yügrünči qaya,中国語: 月挙連赤海牙,? - ?)は、モンゴル帝国および大元ウルスに仕えたウイグル人将軍の一人。『元史』などの漢文史料では月挙連赤海牙(yuèjŭliánchìhǎiyá)と記される。
概要
編集ユグルンチ・カヤが初めて史料上にあらわれるのはモンゴル帝国第4代皇帝モンケの時代のことで、ユグルンチ・カヤはモンケの南宋親征に従軍していた。この南宋遠征ではモンゴル人にとって不慣れな酷暑の地城が戦場となったため疫病が蔓延し、ユグルンチ・カヤはこの疫病の治療に務めた功績で白金50両を与えられている。
モンケの死後、帝位を巡って帝位継承戦争が勃発すると、ユグルンチ・カヤはクビライ派に立って参戦した。1262年(中統3年)にはクドゥがクビライに反旗を翻したため、 兵を率いてこれを討伐する功績を挙げた。1275年(至元12年)には隴右河西道提刑按察使に任ぜられ、兀朗孫火石顔が反乱を起こした時には皇太子チンキム・安西王マンガラの指揮下に入ってこれを討伐した[1]。
1278年(至元15年)、ユグルンチ・カヤは伯速帯とともに六盤山で叛乱を起こした グユク家のトゥクルクを討伐し、金衣・腰帯・金碗を与えられた[2][3]。1280年(至元17年)には嘉議大夫に、1283年(至元20年)には中奉大夫・四川等処行中書省参知政事を歴任したが、病のため官を辞して秦州に帰郷した。その後も復職することはなく、1304年(大徳4年)に亡くなった。後に威寧郡公に追封されている[4]。
脚注
編集- ^ 『元史』巻135列伝22月挙連赤海牙伝,「月挙連赤海牙、畏兀児人。従憲宗征釣魚山、奉命修麹薬以療師疫、賞白金五十両。継従太子満哥都征雲南、戦数勝。中統三年、火都曁答離叛、領兵与討平之。至元十二年、佩虎符、為隴右河西道提刑按察使。兀朗孫火石顔謀乱、従皇太子安西王往鎮之、皇太子賜以白金五十両」
- ^ 松田1996,55-56頁
- ^ 村岡1992,30頁
- ^ 『元史』巻135列伝22月挙連赤海牙伝,「十五年、与伯速帯平土魯、皇子復賜金衣腰帯金碗、且以其功聞。十七年、進官嘉議大夫、仍居旧職。二十年、進中奉大夫・四川等処行中書省参知政事、尋以疾帰秦州。大徳八年卒。至順中、贈推忠宣力定遠功臣・資善大夫・陝西行省左丞・護軍、追封威寧郡公、諡襄靖」
参考文献
編集- 松田孝一「オゴデイ諸子ウルスの系譜と継承」 『ペルシア語古写本史料精査によるモンゴル帝国の諸王家に関する総合的研究』、1996年
- 村岡倫「オゴデイ= ウルスの分立」『東洋史苑』39号、1992年
- 『元史』巻135列伝22月挙連赤海牙伝