ヤーノ・サーリネン
ヤーノ・サーリネン(よりフィンランド語に近い表記ではヤルノ・サーリネン、Jarno Saarinen, 1945年12月11日 - 1973年5月20日)は、フィンランド・トゥルク出身のオートバイレーサー。ニックネームはフライング・フィン。
ヤーノ・サーリネン(ヤルノ・サーリネン) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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国籍 | フィンランド | ||||||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 |
1945年12月11日 Turku, Finland | ||||||||||||||||||||||||||||||||
死亡年月日 |
1973年5月20日 (27歳没) Autodromo Nazionale Monza, Italy | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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経歴
編集元々はアイスレース[1] のライダーだったがロードレースに転向した。
世界グランプリで活躍し、ヤマハのマシン[2] で1972年に世界GP250 cc クラスのチャンピオンになった。
1973年、ヤマハワークスライダーとして世界GP500cc クラスと250cc クラスに出場[3]。500cc 初戦で優勝するなど好調だった。しかし第4戦イタリアGP(モンツァ・サーキット)の250cc クラスで、スタート直後に発生した多重衝突事故のため死去。
死亡事故
編集サーリネンが事故死したイタリアGP250cc クラスのレースの直前には、350cc クラスのレースが開催された。350ccクラスのマシンがオイルを吹き[4]、コース上にオイルが残ったままの状態で、十分な処理も行われていなかったと言われる。
コース路面にオイルが残った状態のまま250 cc クラスのレースがスタート。トップで飛び出したのはアエルマッキに乗るレンツォ・パゾリーニで、これをサーリネンと、同じくヤマハワークスライダーの金谷秀夫が追う形になり直線を加速していった。
ところが1コーナー手前の直線部分にオイルが残っていたため、パゾリーニのマシンが横滑りして転倒。直後に付けていたサーリネンは、避けきれずにパゾリーニに追突してしまう。2台のマシンと2人のライダーの身体が、もつれ合う格好で高速のままコースアウトし、側壁などに叩き付けられた。
2台の直後にいた金谷も転倒し、マシンが炎上した。後続のマシン群も、路面のオイルと、トップ3台の転倒に巻き込まれ、多くが衝突・転倒する結果になった。
この事故でパゾリーニとサーリネンが死亡。チャス・モーティマーによるとサーリネンの頭部は事実上すべて失われていたという。マルチクラッシュに巻き込まれた他の転倒者も負傷し、歩いてその場を離れられたのはモーティマー1人だった。
サーリネンの同僚だった金谷は、後に「オイルの処理をきちんとせず、オイルの存在をライダーに通知しなかったレース主催者に責任がある」と証言している[5]。
後世への影響など
編集サーリネンは、現在のロードレースで主流になっているハングオフテクニックの元祖だという意見がある。
根本健によれば、世界で初めて膝を擦って走ったライダーであるという[6]。また、サーリネンはレーシングライダーに必要な体力について、次のように語っていた。
ボウリングをやる体力があればじゅうぶんだ— ヤーノ・サーリネン, 『片山敬済 俺だけの2輪テクニック』(p196)
サーリネンが事故死した当時は、決勝スタート前のサイティングラップ[7] がまだ存在しなかった。この事故もきっかけになり、サイティングラップなどの安全対策が行われるようになったという意見がある。
F1ドライバーであるヤルノ・トゥルーリの名「ヤルノ」は、サーリネンにちなんで付けられたという。トゥルーリの両親がサーリネンの熱心なファンだった。
主な戦績
編集脚注
編集参考文献
編集- 根本健『グランプリを走りたい - '60-'70を駆け抜けたバイク人生』(初版)枻出版社〈枻文庫〉、2002年11月20日 発行。ISBN 978-4870997561。
- 片山敬済『片山敬済 俺だけの2輪テクニック』三推社・講談社、1983年4月15日 第1刷発行、1984年3月10日 第5刷発行。ISBN 978-4061071339。