ヤクルト本社バレーボール部
ヤクルト本社バレーボール部(ヤクルトほんしゃバレーボールぶ)は、神奈川県藤沢市を本拠地に活動していたヤクルト本社の女子バレーボール部である。
ヤクルト本社バレーボール部 | |
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原語表記 | ヤクルト本社バレーボール部 |
ホームタウン | 神奈川県藤沢市 |
創設年 | 1972年 |
廃部年 | 1978年 |
チーム所在地 | 神奈川県藤沢市 |
体育館所在地 | 神奈川県藤沢市 |
概要
編集1972年4月に創部[1]。1974、75年度に全日本6人制実業団優勝大会を連覇、実業団リーグ入替戦で久光製薬にも勝利して、チーム創部3年で実業団リーグ(チャレンジリーグの前身)入りを決めた。チームのモットーは全国6万人とも言われた「ヤクルトレディから親しまれるチーム」。試合で全国を転戦する時には、地元のヤクルトレディたちが応援団となった。
ヤクルト本社藤沢工場にあった体育館の入口には大松博文の「為せば成る」という言葉の額が飾り付けてあった。近隣のママさんバレーボールチームを対象にした講習会などを通じて地域密着を図った。
実業団リーグには3シーズン在籍したが、1978年に入替戦に敗れリーグから陥落。ヤシカ廃部に伴う補充大会に推薦された[2]が逆にヤクルトチームも廃部となった。なお、同年にはヤクルトスワローズが日本シリーズで初優勝を飾っている。
成績
編集主な成績
編集この節の加筆が望まれています。 |
年度別成績
編集大会名 | 順位 | 参加チーム数 | 試合数 | 勝 | 敗 | |
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実業団リーグ | 第7回 (1975/76) | 4位 | 6チーム | 10 | 6 | 4 |
第8回 (1976/77) | 5位 | 6チーム | 10 | 2 | 8 | |
第9回 (1977/78) | 6位 | 6チーム | 10 | 1 | 9 |
所属選手
編集1977年度の選手・スタッフは次の通り。
選手
編集背番号 | 名前 | 年齢 | 国籍 | Position | 備考 |
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1 | 北原明美 | 22 | 日本 | レフト | |
2 | 田中芳江 | 22 | 日本 | セッター | |
3 | 阿部久子 | 23 | 日本 | センター | |
4 | 橿村よし江 | 23 | 日本 | レフト | 主将 |
5 | 前田美智子 | 21 | 日本 | レフト/ライト | |
6 | 藤本ひとみ | 21 | 日本 | センター | |
7 | 木ノ下恵美子 | 20 | 日本 | セッター | |
8 | 曽根美恵子 | 20 | 日本 | レフト/ライト | |
9 | 千葉康子 | 20 | 日本 | センター | |
10 | 山本紀子 | 20 | 日本 | レフト | |
11 | 蛭沼雅子 | 19 | 日本 | ライト | |
12 | 千葉節子 | 18 | 日本 | センター | |
13 | 和田緑 | 20 | 日本 | レシーバー | |
14 | 藤井由美子 | 23 | 日本 | レシーバー | |
- | 与田正子 | 24 | 日本 | ライト | |
- | 増田知子 | 25 | 日本 | セッター |
スタッフ
編集役職 | 名前 | 国籍 | 備考 |
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部長 | 酒井清人 | 日本 | |
監督 | 成田明彦 | 日本 | |
コーチ | 山内博 | 日本 | |
マネージャー | 福岡秀子 | 日本 | |
マネージャー | 伊藤鐘代 | 日本 |
脚注
編集参考文献
編集- 月刊バレーボール 1977年1月号臨時増刊 '76-77チームの顔 132-133ページ
- 月刊バレーボール 1978年1月号臨時増刊 '78チームの顔 138-141ページ