メリー・フローレンス・デントン
メリー・フローレンス・デントン(Mary Florence Denton、1857年7月4日 - 1947年12月24日[1])は、アメリカ合衆国出身の女性宣教師、教育者。日本赤十字社終身会員[2]。同志社社友・評議員[3]。「同志社女子部の母」と呼ばれた[1]。
メリー・フローレンス・デントン Mary Florence Denton | |
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生誕 |
1857年7月4日 アメリカ合衆国・ネバダ州スノーポイント |
死没 |
1947年12月24日(90歳没) 日本・京都府京都市 |
死因 | 肺炎 |
墓地 | 相国寺長得院墓地 |
住居 | デントン・ハウス(同志社女学校内) |
別名 | 同志社女子部の母 |
出身校 | ボストン・カレジェート・スクール(オークランド) |
職業 | 宣教師、教育者 |
団体 | アメリカン・ボード、同志社財団 |
宗教 | キリスト教(会衆派) |
略歴
編集ネバダ州スノーポイント生まれ[4]。オークランドのボストン・カレジェート・スクール卒業[4]。カリフォルニア州パサデナで小学校教師を務めていたとき、休暇で一時帰米中の同志社教師ゴードンから同志社と新島襄の話を聞き、家族や友人らの反対を押し切って1888年10月に来日する[4]。以後半世紀以上もの長きにわたって同志社女学校の発展に尽くし、1929年に定年を迎えた後も帰国せず、太平洋戦争中も特高警察の監視下に置かれながら日本滞在を許された。1947年12月24日に肺炎のため死去。墓は相国寺長得院墓地にある[1]。
デントンは自らの信条と哲学を表す言葉として、次のような言葉を残した[5]。
「 | 世界一よい国は日本
日本一よい都は京都 京都で一番よい学校は同志社 同志社で一番よいところは女学校 |
」 |
デントン・ハウス
編集同志社女学校内に設けられたデントン・ハウスは「ホワイトハウスを除いてもっとも興味深いパーラー」と呼ばれ[1]、ウォーナーやジョセフ・グルーなど内外の賓客を迎えて日米交流の舞台となったが[4]1960年に解体された[6]。その備品の一部は同志社女子大学史料センターに保管されている[7]。
栄典
編集脚注
編集参考文献
編集- 同志社々史々料編纂所 『同志社九十年小史』 学校法人同志社、1965年
- 小野美恵子 『日米の懸け橋 日本の女子教育に捧げたデントンの生涯』 大阪書籍株式会社、1988年
- 『日本キリスト教歴史大事典』 教文館、1988年 ISBN 4-7642-4005-X
- 同志社山脈編集委員会編 『同志社山脈』 晃洋書房、2003年 ISBN 4771014086
関連項目
編集外部リンク
編集- 「同志社女子部の母」デントン
- 同志社の宣教師たち―初期の七人をめぐって キリスト教文化センター│京都 同志社大学
- LCC新島塾-【デントン女史】-2011年1月17日
- Mary Florence Denton (1857-1947) - Find A Grave Memorial
- 赤澤真理, 中西美香, 田中厚子「同志社女学校デントン・ハウスの平面構成・室内意匠の復原的検討」『同志社女子大学学術研究年報』第66号、同志社女子大学教育・研究推進センター、2015年、187-199頁、doi:10.15020/00001301、ISSN 0418-0038、NAID 120005703334。