ムタンチス
ムタンチス(Os Mutantes)は、ブラジルのロック・バンド。トロピカリア・ムーヴメントを代表する存在の一つとして知られる。"Os"とはポルトガル語の定冠詞で、バンド名を英訳すると"The Mutants"となる。1978年に解散するが、2006年には再結成された。
ムタンチス | |
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セルジオ・ヂアス(2007年) | |
基本情報 | |
出身地 | ブラジル サンパウロ |
ジャンル | MPB、サイケデリック・ロック、ハードロック、プログレッシブ・ロック |
活動期間 | 1965年 - 1978年、2006年 - |
公式サイト | www.mutantes.com |
メンバー |
セルジオ・ヂアス ヂーニョ・レーミ Bia Mendes Henrique Peters Fábio Recco Simone Sou Vinicius Junqueira Vitor Trida |
旧メンバー |
アルナルド・バチスタ ヒタ・リー リミーニャ ルイ・モッタ トゥリオ・モーラォン Antônio Pedro Paulo de Castro Fernando Gama ゼリア・ダンカン |
来歴
編集結成 - 解散
編集1964年、アルナルド・バチスタとセルジオ・ヂアス(本名セルジオ・ヂアス・バチスタ)の兄弟は、The Wooden Facesというバンドを結成。その後ヒタ・リーと出会い、1965年にムタンチスを結成。バンド名は、SF小説の『O Planeta Dos Mutantes』が由来[1]。
1966年にシングル「Suicida」でデビューし、1968年、サイケデリック・ロック色の強いファースト・アルバム『Os Mutantes』を発表。同時期に、カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、ガル・コスタ、ナラ・レオン、トン・ゼー等と共に、トロピカリア・ムーヴメントを代表するコラボレーション・アルバム『Tropicalia: ou Panis et Circenses』に参加し、ジルベルト・ジルのセカンド・アルバム『Gilberto Gil』(1968年)にも参加した。この年の秋、カエターノ・ヴェローゾが歌謡フェスティバルの予選で「É Prohibido Proibir(禁ずることを禁ずる)」というプロテスト・ソングを歌った際、ムタンチスがバック・バンドを務めたが、保守層の学生達からブーイングが起こるというハプニングもあった[2]。
1969年、フランスのカンヌで行われたMIDEMに出演。その後、セカンド・アルバム『Mutantes』発表。
1970年、リミーニャが加入してバンドは4人編成となり、サード・アルバム『A Divina Comédia ou Ando Meio Desligado』発表。同年、ヒタ・リーが初のソロ・アルバム『Build Up』発表。ヂーニョ・レーミを迎えて5人編成となったバンドは、1970年11月、イギリス人プロデューサーのカール・ホームズと共に、英語詞のアルバム『Tecnicolor』をパリで録音する[3]。しかし、同作は諸事情により発表されず、1971年には、本来『Tecnicolor』で発表される予定だった楽曲も含むアルバム『Jardim Elétrico』発表。
『Mutantes e Seus Cometas no País do Baurets』(1972年)を最後にヒタ・リーが脱退。残された4人は、プログレッシブ・ロック色の強いアルバム『O A e o Z』を制作するが、同作は1992年まで未発表となった。そして、セルジオ・ヂアス以外のメンバーが一新された編成で、『Tudo Foi Feito Pelo Sol』(1974年)を発表。その後もメンバー・チェンジが続き、1978年にムタンチスは解散。
再評価
編集1992年、お蔵入りとなっていた『O A e o Z』が発売される。1996年にはムタンチスのトリビュート・アルバム『Triangulo Sem Bermudas』が発表される[4]。セパルトゥラが同年に発表した『The Roots of Sepultura』(オリジナル・アルバム『ルーツ』のデラックス・エディション盤)には、『Mutantes e Seus Cometas no País do Baurets』収録曲のカヴァー「A Hora e a Vez Do Cabelo Nascer」が収録された。2000年には、『Tecnicolor』もショーン・レノンによるアートワークで発売された。
再結成
編集2006年、オリジナル・メンバーのセルジオ・ヂアスとアルナルド・バチスタを中心に、ヂーニョ・レーミ、新ボーカリストのゼリア・ダンカンを加えた4人で再結成。6月22日のロンドン公演ではデヴェンドラ・バンハートもゲスト出演し、その模様はライヴ・アルバム『Mutantes Ao Vivo - Barbican Theatre, Londres 2006』としてもリリースされた。しかし、アルナルドとゼリアは2007年に脱退。バンドは、セルジオとヂーニョを中心に、多くのサポート・メンバーを加える形で活動を継続。
2009年9月、新作のスタジオ・アルバムとしては35年ぶりとなる『Haih Or Amortecedor』を米アンタイ・レコードより発表。同作にはトン・ゼーもゲスト参加した。
メンバー
編集オリジナル・メンバー
編集- セルジオ・ヂアス - ギター、ボーカル(1965年 - 1978年、2006年 - )
- アルナルド・バチスタ - エレクトリックベース、キーボード、ボーカル(1965年 - 1973年、2006年 - 2007年)
- ヒタ・リー - ボーカル、フルート、パーカッション(1965年 - 1972年)
その他
編集- リミーニャ - ベース(1970年 - 1973年)
- ヂーニョ・レーミ - ドラムス(1971年 - 1973年、2006年 - )
- トゥリオ・モーラォン - キーボード(1973年 - 1978年)
- ルイ・モッタ - ドラムス(1973年 - 1978年)
- Antônio Pedro - ベース(1974年 - 1976年)
- Luciano Alves - キーボード(1976年 - 1978年)
- Paulo de Castro - ベース(1976年 - 1978年)
- Fernando Gama - ベース(1978年)
- ゼリア・ダンカン - ボーカル(2006年 - 2007年)
- Bia Mendes - パーカッション(2008年 - )
- Henrique Peters - キーボード(2008年 - )
- Fábio Recco - ピアノ(2008年 - )
- Simone Sou - パーカッション(2008年 - )
- Vinicius Junqueira - ベース(2008年 - )
- Vitor Trida - ギター、キーボード、フルート、ヴァイオリン、チェロ(2008年 - )
ディスコグラフィ
編集スタジオ・アルバム
編集- オス・ムタンチス - Os Mutantes(1968年)
- ムタンチス - Mutantes(1969年)
- 神曲 - A Divina Comédia ou Ando Meio Desligado(1970年)
- ジャルヂン・エレトリコ〜エレクトリック・ガーデン - Jardim Elétrico(1971年)
- ボーレの国のムタンチスと流れ星たち - Mutantes e Seus Cometas no País do Baurets(1972年)
- Tudo Foi Feito Pelo Sol(1974年)
- O A e o Z(1992年) - 1973年録音
- テクニカラー - Tecnicolor(2000年) - 1970年録音
- Haih Or Amortecedor(2009年)
- Fool Metal Jack(2013年)
- Zzyzx (2020年)
ライヴ・アルバム
編集- Mutantes Ao Vivo(1976年)
- Mutantes Ao Vivo - Barbican Theatre, Londres 2006(2006年)
コラボレーション・アルバム
編集- トロピカリア - Tropicalia: ou Panis et Circenses(1968年)
脚注
編集- ^ allmusic(((Os Mutantes>Biography)))
- ^ 『トロピカーリア ブラジル音楽を変革した文化ムーヴメント』(クリストファー・ダン・著、国安真奈・訳、音楽之友社、2005年、ISBN 4-276-23683-5)p.188-191
- ^ 『ジャルヂン・エレトリコ〜エレクトリック・ガーデン』日本盤CD(UICY-3001)ライナーノーツ(石川真男、2000年7月)
- ^ allmusic(((Triangulo Sem Bermudas>Overview)))