ミハイル2世 (キエフ大公)

キエフ大公

ミハイル2世ミハイル・フセヴォロドヴィチロシア語: Михаи́л Все́володовичウクライナ語: Михайло Всеволодович1179年 - 1246年9月20日)は、キエフ大公(在位:1238年 - 1239年1241年 - 1243年)。ペレヤスラヴリ公(在位:1206年)、ノヴゴロド公(在位:1224年 - 1229年)、チェルニゴフ公(在位:1223年 - 1246年)、ガーリチ公(在位:1235年 - 1239年)を兼ねた。

ミハイル2世
Михаи́л II
キエフ大公
在位
別号

全名 Михаи́л Все́володович
ミハイル・フセヴォロドヴィチ
出生 1179年
死去 1246年9月20日
ジョチ・ウルスバトゥ・サライ
埋葬 1772年(改葬)
ロシア帝国の旗 ロシア帝国モスクワ聖天使首大聖堂
配偶者 オリョーナ
子女
王朝 リューリク朝
父親 フセヴォロド4世
母親 マリア
宗教 キリスト教正教会
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生涯

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チェルニゴフ公フセヴォロド(キエフ大公フセヴォロド4世)とポーランド大公カジミェシュ2世の長女マリア(アナスタシア)の間に生まれる。父フセヴォロド4世がペレヤスラヴリからペレヤスラヴリ公ヤロスラフを追放した後、しばらくペレヤスラヴリ公の座にあった。1223年カルカ河畔の戦いに参加し、チェルニゴフ公ムスチスラフの戦死後にチェルニゴフ公となった。1224年ノヴゴロド公を兼ねるようになると、すぐに義兄のユーリーや大貴族たちとの紛争が起こり、捕虜交換を行った。

1226年には、ユーリーの援助でセヴェルスキーオレグ等に対して遠征を行った。年代記は紛争の原因を記していないが、オレグがチェルニゴフの議会の決定を覆そうとしたためとみなす説がある。

1228年ピンスク公ロスチスラフやキエフ大公ウラジーミルと連合して、ガーリチ公ダニールの領有するカミャネツ(現在のベラルーシブレスト州)を包囲するが失敗した。

1229年ノヴゴロドで民の負担を減らす政策を敷いた。また、ノヴゴロド公からチェルニゴフ公へ戻っても、ノヴゴロドの市長を任命して介入の姿勢を見せていたが、1231年にウラジーミル・スーズダリ公のユーリーから攻められ、ノヴゴロドに関する抗争からは身を引いた。

1234年イジャスラフ側に立ってキエフをめぐる闘争に干渉し、ダニールの軍を包囲した。1235年にはダニールの領土であるガーリチを占領した(ガーリチ・ヴォルィーニ公国統一戦争#ミハイルとダニール)。結果としてミハイルはガーリチ公、イジャスラフはキエフ大公となった。

1237年秋、第一次モンゴルのルーシ侵攻に対する援助のためにリャザンへ向かった(年代記によっては、兵の供出を拒んだとする記述もある)。

1238年、ヤロスラフが退いた後のキエフ大公の座についた。さらに、自分の長男ロスチスラフとガーリチの大貴族たちで編成した軍をリトアニアへ差し向けたが、軍隊が出払ったのを機としたダニールによってガーリチを占領された。

1239年(もしくは1240年初春)、自領のチェルニゴフにモンゴル帝国軍が現れた際にはキエフに滞在しており、長男ロスチスラフと共にハンガリーへの逃亡を余儀なくされた。なお、自領チェルニゴフの陥落、1240年のキエフ陥落の後、ダニールから封地としてルーツィクを受け取っている。

モンゴル軍の侵攻の後は荒廃したキエフに戻り、1243年までキエフを治めていた。しかし、長男ロスチスラフの結婚のためにハンガリーへと向かった際、モンゴルの出した勅令によってキエフの所有者はヤロスラフに変わった。その後モンゴル側から招かれ、かつて統治していたチェルニゴフに戻ったが、殺害されてその生涯を閉じた。

死と列聖

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ミハイルの死に関して、ある年代記[1]は「ミハイルはバトゥの幕舎に呼ばれ、異教の司祭から、彼らにとって神聖な火と偶像を参拝するよう命じられた。しかしそれを断ったために殺され、遺骸は彼の忠実な側近によってチェルニゴフへ運ばれた。」という主旨の記述を伝えている[2]。しかし実際はキエフ大公ヤロスラフ3世のように、モンゴルの息のかかった公によって毒殺されたようである。また、ほぼ同時期[3]にダニールはバトゥを直接訪問し、従属を認められている。

1543年アルハンゲリスキー大聖堂聖者の群像画の中に書き加えられた。祭日は9月20日(グレゴリオ暦では10月3日)。1572年、ミハイルの遺体は世に知られるところとなり、チェルニゴフからモスクワへ運ばれた。1772年には不朽体としてシリブリャーンカの聖骨箱に納められ、アルハンゲリスキー大聖堂に安置された。しかし聖骨箱は1812年フランス軍の侵攻の際に盗まれたため、それ以降は青銅のもので代用されている。

「後裔」の系譜

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遺体がチェルニゴフからモスクワへ運ばれた後、ミハイルの名はロシア帝国において広く知られることとなった。それによって、世襲による爵位や称号を持たないオカ川上流の公たちは、ミハイルを祖先に位置付ける系譜を編集し始めた。系譜に関する書籍の中にはミハイルの子孫として、ドルゴルーコフ家ヴァルコーンスキー家ロシア語版レプニン家ゴルチャコフ家ロシア語版アバレーンスキー家ロシア語版オドエフスキー家ロシア語版ヴォロティンスキー家英語版ボリャティンスキー家ロシア語版、そしてオレグ一門(オレグはミハイルの4代前の祖先にあたる人物)を名乗った全ての公たちといった、おびただしい数の家系が見られる。

なお、21世紀に提示された遺伝学の研究[4]は、これらの一族がウラジーミル2世モノマフ[5]の男系から生じたものではないことを示している。

子女

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ガーリチ公ロマンの次女オリョーナと結婚し、1男2女を儲けた。

また、子と推測される(後世の系譜の中に記述されている)以下の人物がいる。

脚注

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  1. ^ 意訳すると『オルダでのチェルニゴフ公ミハイルと貴族フェオドシーの殺害の物語ロシア語版』と題された書物。
  2. ^ アレクサンドル・ダニロフ他『ロシアの歴史(上)古代から19世紀前半まで』(129頁)では、ミハイルの死因はバトゥによる殺害説を採っている。
  3. ^ アレクサンドル・ダニロフ他『ロシアの歴史(上)古代から19世紀前半まで』(126頁)では1245年。
  4. ^ Rurikid Dynasty DNA Project(英語)
  5. ^ ミハイルの6代前の祖先ヤロスラフ1世の孫にあたる(モノマフまでの血縁関係:ヤロスラフ1世‐フセヴォロド1世‐モノマフ)、(ミハイルまでの血縁関係:ヤロスラフ1世-スヴャトスラウ2世-オレグ1世フセヴォロド2世スヴャトスラフ3世-フセヴォロド4世‐ミハイル)。

出典

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  • Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона в 82 тт. и 4 доп. тт. — М.: Терра, 2001 г.
  • Богуславский В. В. Славянская Энциклопедия. Киевская Русь-Московия: в 2 т. — М.: Олма-Пресс, 2001., т.1, стр.728-729
  • Русский биографический словарь: В 25 т. /А. А. Половцов. — М., 1896—1918.
  • Жития Святых, на русском языке, изложенные по руководству четьих-минеи Св. Димитрия Ростовского. Книга третья. Издание Московской синодальной типографии. Москва. 1906. — Репринт: Издание Введенской Оптиной Пустыни, 1993.
  • Сказание об убиении в Орде князя Михаила Черниговского и его боярина Феодора // В: Повести и сказания Древней Руси. Отв. ред. Д. С. Лихачев. СПб., Диля, 2001, 243—247.
  • Горский А. А. Гибель Михаила Черниговского в контексте первых русских князей с Ордой // Средневековая Русь, 6, 2006, 138—154.

参考文献

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