マードー・ラーオ・シンディア2世
マードー・ラーオ・シンディア2世(Madho Rao Scindia II, 1876年10月20日 - 1925年6月5日)は、 シンディア家の当主、グワーリヤル藩王国の君主(在位:1886年 - 1925年)
マードー・ラーオ・シンディア2世 Madho Rao Scindia II | |
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シンディア家当主 グワーリヤル藩王 | |
マードー・ラーオ・シンディア2世 | |
在位 | 1886年 - 1925年 |
戴冠式 | 1894年12月15日 |
別号 | マハーラージャ |
出生 |
1876年10月20日 グワーリヤル |
死去 |
1925年6月5日 フランス、パリ |
子女 | ジョージ・ジーヴァージー・ラーオ・シンディア |
家名 | シンディア家 |
父親 | ジャヤージー・ラーオ・シンディア |
宗教 | ヒンドゥー教 |
生涯
編集1876年10月20日、シンディア家当主にして藩王ジャヤージー・ラーオ・シンディアの息子として生まれた[1]。
1886年6月20日、ジャヤージー・ラーオは死亡し、マードー・ラーオ・シンディア2世がその地位を継承した[1]。
1894年12月15日までマードー・ラーオは摂政評議会の下で統治し、以降は自身で統治をはじめた[1]。
1900年、清朝中国で義和団の乱がおきると、イギリス軍(イギリス領インド帝国軍)の一員として中国へと赴き[1]、傷病兵の救護にあたった。
1902年8月9日、ウェストミンスター寺院で行われたイギリス初代国王エドワード7世の戴冠式に出席した[1]。
1903年1月1日、マードー・ラーオはデリー・ダルバールに出席し、21発の祝砲を受けた(本来なら19発)[1]。
1911年6月2日、ウェストミンスター寺院で行われたイギリス国王ジョージ5世の戴冠式に出席した[1]。
同年12月12日、マードー・ラーオは再びデリー・ダルバールに出席した際、このとき21発の祝砲を受けた[1]。
1925年6月5日、マードー・ラーオはフランスを旅行中、パリで急死した。その遺体はパリ郊外のペール・ラシェーズ墓地で火葬された[1]。
人物
編集- 旅行家であり、イギリス、フランスなどヨーロッパ諸国へとよく旅立った。
- 英国に対して忠誠心が厚く、2度の英王戴冠式に出席したばかりか、息子の名の一部にはジョージ5世の名を入れた。
- ヴァドーダラー藩王サヤージー・ラーオ・ガーイクワード3世の娘インディラー・ラージェー(インディラー・デーヴィー)の婚約者であった。しかし、インディラがクーチ・ビハール藩王国の王子ジーテーンドラ・ナーラーヤンと恋に落ちたため、結局これは破談となった。