マーティン・エクストローム
マーティン・ユーヘン・エクストローム(スウェーデン語: Martin Eugen Ekström)とは、スウェーデンの軍人で、ファシズムとナチズムの統括組織である民族社会主義連合の指導者。
マーティン・ユーヘン・エクストローム | |
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マーティン・エクストローム | |
生誕 |
1887年12月6日 スウェーデンアヴェスタ自治体 |
死没 |
1954年12月28日(67歳没) フィンランドヘルシンキ |
軍歴 |
スウェーデン陸軍(1905年 - 1911年) スウェーデン人憲兵隊 (1911年-1915年) ドイツ帝国陸軍(1915年-1916年) フィンランド白軍(1918年) エストニア陸軍(1919年) フィンランド白衛軍 (1918年 - 1934年) フィンランド陸軍(1940年 - 1941年) |
最終階級 |
軍曹(スウェーデン陸軍) 大尉(イラン憲兵隊) 中尉(ドイツ帝国陸軍) 大佐(エストニア陸軍) 中佐(フィンランド陸軍) |
勲章 |
ライオンと太陽勲章 二級鉄十字章1914年章 オスマン戦争章 自由十字勲章 (1918年) フィンランド内戦勲章 タンペレ解放勲章 自由十字章 (エストニア) (1920年) エストニア独立戦争記念勲章 名誉十字章 |
配偶者 | グラディス・クルテン |
経歴
編集エクストロームはコッパルベリ県のアヴェスタ自治体でアンダース・グスタフ・エクストローム(スウェーデン語: Anders Gustav Ekström)とヨハンナ・マチルダ(スウェーデン語: Johanna Mathilda)の息子として生まれる[1]。1916年に砲術学校を卒業し、トルコにおいてドイツ軍の士官課程を修了する。
1911年から1915年にイラン憲兵隊の軍事顧問とフィンランド白衛軍のヴァーサ管区の参謀長を兼任し、フィンランド内戦やエストニア独立戦争、リトアニア独立戦争に参加した[1]。
1934年から民族社会主義連合)の指導者と「リックスポステン(スウェーデン語: Riksposten)」の編集者を務めた[2]。その間にヴァーサ管区でヴィボルグ虐殺と呼ばれる事件を引き起こした。
その後、中佐に昇進したエクストロームは、スウェーデン人義勇兵部隊第3部隊の隊長[3]として冬戦争に参加した。
1954年にヘルシンキで死去。享年67歳。
私生活
編集1920年にグラディス・クルテン(スウェーデン語: Gladys Kurtén)と結婚、カール・ヘンリック・クルテン(スウェーデン語: Karl Henrik Kurtén)とフローレンス・エマ・エリオット(スウェーデン語: Florence Emma Elliott[1])という2人の娘に恵まれた。
脚注
編集- ^ a b c (Swedish) Vem är det: svensk biografisk handbok. 1933 [Who is it: Swedish biographical handbook. 1933]. Stockholm: Norstedt. (1932). p. 210
- ^ (Swedish) Vem är det: svensk biografisk handbok. 1943 [Who is it: Swedish biographical handbook. 1943]. Stockholm: Norstedt. (1940). p. 205
- ^ “Archived copy”. 2004年10月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2004年10月9日閲覧。 Tendens.se.
出典
編集- Rees, Philip, ed (1991). Biographical Dictionary of the Extreme Right Since 1890. ISBN 0-13-089301-3
参考文献
編集外部リンク
編集- Ekström, Martin Eugen (06.12.1887), in Swedish with photo.
- “民族啓蒙 スウェーデンの反ユダヤ主義の歴史における特徴”. 2005年11月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2005年11月17日閲覧。
- Swedish Fascism - Why Bother? by Lena Berggren