マルセル・ジュノー
スイスの医師 (1904-1961)
マルセル・ジュノー(Marcel Junod、1904年5月14日 - 1961年6月16日)は、スイスの医師。
ジュネーヴ大学で麻酔科学を専攻。赤十字国際委員会の派遣員を第二次エチオピア戦争・スペイン内戦・第二次世界大戦の期間に渡って務めた人物である。第二次世界大戦後、赤十字国際委員会副委員長も務めた。
経歴
編集- 1904年5月14日 - スイスのヌーシャテル州のラ・ショー=ド=フォンに生まれる。
- 1935年10月 - 赤十字国際委員会の要請を受けて派遣員となり、エチオピアへ赴く[1](第二次エチオピア戦争)。
- 1936年7月 - 赤十字国際委員会の要請を受けて派遣員となり、スペインへ赴く(スペイン内戦)。
- 1939年9月 - 赤十字国際委員会の要請を受けて兵役義務を免除され、派遣員となる。以後、第二次世界大戦中にドイツ・ポーランド・フランス・ギリシャの各地を廻り、人道支援(捕虜や被災者の安否確認、捕虜の郵便物交換の仲介、捕虜や被災者への救護物資の手配、医療支援等々)に尽力する。
- 1944年 - 赤十字国際委員会駐日主席代表に任命されるが、日本政府からの入国許可を得られずジュネーヴに留まる。
- 1945年
- 1946年 - 日本を離れる。以後、毒ガスや核兵器の非人道性を強く世界にアピールする活動を行う。
- 1959年 - 在日朝鮮人の帰還事業に関連し、赤十字国際委員会から日本への使節として、8月23日に来日した。岸信介首相、藤山愛一郎外相らと会見。日本政府の帰還調整委員会にオブザーバーとして出席するなど、約1ヶ月間日本での業務にあたった[2]。
- 1961年6月16日 - スイスにて没。
- 1979年 - 広島平和記念公園に顕彰記念碑が建立される。
特記事項
編集彼はスペイン内戦の際にはフランコ政権側から、第二次世界大戦時にはドイツ側から危険分子とみなされており、ゲシュタポの拘束を受けたこともある。広島の惨状を知った際にはいち早くGHQに交渉して医療物資を提供させるなど交渉人としても卓越した人物であった。
参考文献・資料
編集- マルセル・ジュノー(著)、丸山幹正(訳)『ドクター・ジュノーの戦い 増補版』(勁草書房、1991年) ISBN 4-326-75037-5
- 『赤十字新聞 第771号』(日本赤十字社、2004年8月1日発行)
- 太田成美 訳・著『赤十字の源泉を求めて-エピソードでつづる赤十字の心-』(日本赤十字社)
- テッサ・モーリス-スズキ(著)、田代泰子(訳)『北朝鮮へのエクソダス』(朝日新聞出版、2011年)ISBN 978-4-02-261706-4
補記
編集脚注
編集- ^ この時にスウェーデン赤十字社から救援物資の輸送機のパイロットとして派遣されたカール・グスタフ・フォン・ローゼンと出会ったことが『ドクター・ジュノーの戦い』に記されている
- ^ テッサ・モーリス-スズキ、302ページ。
関連項目
編集- 赤十字社
- 赤十字国際委員会
- 第二次エチオピア戦争
- 広島市
- 広島平和記念公園
- ジュノー (アニメ映画)
- 大佐古一郎:中国新聞記者。被爆体験を含む『広島 昭和二十年』で「枕崎台風の水害によりジュノーが死去」と誤って記し、その訂正を兼ねた取材をもとに彼の伝記を著した。
- ウィルフレッド・バーチェット:連合国(オーストラリア)人のフリージャーナリストとして敗戦直後の広島に入り、GHQ/SCAPの報道規制に抗して現地取材を行い、「No More Hiroshima」の言葉とともに被爆の実態を全世界に伝えた。
- フロイド・シュモー:アメリカ合衆国の森林学者。戦後初期の広島で住宅建設の支援活動を担い、復興住宅の一部は「シュモーハウス」として保存されている。
- 原爆被爆後の被爆者医療にあたった医療関係者(医師・医学者)。