マリア・アンナ・フォン・アンハルト=デッサウ

マリア・アンナ・フォン・アンハルト=デッサウドイツ語: Maria Anna von Anhalt-Dessau, 1837年9月14日 - 1906年9月12日)は、ドイツのアンハルトレオポルト4世の娘で、プロイセン王子フリードリヒ・カールの妃。

マリア・アンナ
Maria Anna
アスカーニエン家
1872年

出生 (1837-09-14) 1837年9月14日
アンハルト=デッサウ公国デッサウ
死去 (1906-09-12) 1906年9月12日(68歳没)
ドイツの旗 ドイツ帝国
ザクセン=コーブルク=ゴータ公国、フリードリヒローダ
埋葬 ドイツの旗 ドイツ帝国
プロイセンの旗 プロイセン王国ベルリン、ヴァンゼー、聖ペテロ・パウロ教会
配偶者 フリードリヒ・カール・フォン・プロイセン
子女 マリー
エリーザベト・アンナ
アンナ・ヴィクトリア
ルイーゼ・マルガレーテ
フリードリヒ・レオポルト
父親 レオポルト4世
母親 フリーデリケ・フォン・プロイセン
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生涯

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アンハルト=デッサウ公(のちアンハルト公)レオポルト4世とその妃でプロイセン王女フリーデリケの間の末娘としてデッサウで生まれた。兄はアンハルト公フリードリヒ1世、姉はザクセン=アルテンブルク公エルンスト1世アグネス英語版

父方の祖父母はアンハルト=デッサウ公世子フリードリヒとヘッセン=ホンブルク方伯女アマーリエ、母方の祖父母はプロイセン王子ルートヴィヒフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の弟)とメクレンブルク=シュトレーリッツ大公女フリーデリケである。母方の叔父にハノーファー王ゲオルク5世(母の異父弟)がいる。

1854年11月29日、母方の又従兄にあたるプロイセンのフリードリヒ・カール王子と結婚した。夫との間に5人の子どもをもうけたが、結婚生活は不幸であった。フリードリヒ・カールは妻が立て続けに女の子ばかり産むことに腹を立て、四女ルイーゼ・マルガレーテが誕生した際は、息子を産まないマリア・アンナを殴ったと言われる。夫妻が別居しなかった訳はひとえにヴィルヘルム1世の懇願によるものだけだった[1]

 
マリア・アンナ画『入り江にて』(1903年)

マリア・アンナは、同時代の人々からこの世代で最も美しい女性の1人と評価されている[2]。音楽と絵画の分野において著しい才能を持ち、社交界に出てきたばかりの少女達にしばしば助言を与えた。耳がほとんど聞こえなかったといい、友人だったラジヴィウ公妃カタジナは「彼女が仲間内でいる時はいつでも、極度に内気で気おくれしていた[3]」が、「2人きりになると周囲にあった多くの会話の雑音に邪魔されず、とても機知に富んで魅力的になった」と語っている[3]

1885年6月15日に夫が亡くなった後、ベルリンを去ってイタリアへ行き、主にナポリローマフィレンツェに滞在した[4]。その後まもなく侍従のヴァーゲンハイム大尉と密かに再婚したとの噂が流れた[1]

1889年に子ども達のうち唯一の息子のフリードリヒ・レオポルトが、皇帝ヴィルヘルム2世の妻アウグステ・ヴィクトリア皇后の妹であるアウグステンブルク公女ルイーゼ・ゾフィーと結婚した。

マリア・アンナは1906年9月12日にフリードリヒローダ英語版において68歳で亡くなった。

子女

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夫フリードリヒ・カールとの間に1男4女をもうけた。

脚注

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注釈

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  1. ^ エリーザベト・アンナは夫が即位する前に亡くなった為、オルデンブルク大公妃ではない。

出典

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参考文献

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外部リンク

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