マックス・エシグ(Max Eschig 1872年5月27日 - 1927年9月3日)は、チェコ系フランス人の音楽出版者。20世紀フランスを代表する多くの作曲家の作品を出版し、後に東欧やラテンアメリカの作曲家の作品も取り扱った[1]

生涯

編集

トロッパウ(現在のチェコオパヴァ)に生まれた。ドイツマインツに本社を置くショット社にしばらく勤務した後の1907年にパリへと移り、そこで自らの音楽出版社を立ち上げた。当初、彼はブライトコプフ・ウント・ヘルテルリコルディ、ショット、ジムロックウニヴェルザール他と同じく、フランスを代表する出版者であった。1920年代に多数の既存出版社を傘下に入れ、フランスにおける重要度を大きく高めていった。

エシグは1927年に55歳でパリに没した。

会社の沿革

編集
 
マックス・エシグが1912年に出版したジャン・ジルベールの『Die keusche Susanne』。

エシグははじめ、小品やフランツ・レハールの『メリー・ウィドウ』といったウィーンオペレッタのフランス語版を出版した。彼自身のカタログにおいては、まずドゥメ社を買収して(1923年)、20世紀の音楽のみに専念した。エミリオ・プジョルと『Bibliothèque de musique ancienne et moderne pour guitare』(1923年より)で提携することにより、エシグはクラシック・ギターのための音楽での一流出版者に躍り出た。1924年以降はエイトル・ヴィラ=ロボスの作品の出版も手掛けており、ここにもギターのための多くの作品が含まれていた。

エシグの没後は、「Max Eschig & Cie.」として取引していた彼の会社は公開会社に移行し、「Éditions Max Eschig」とブランド名を変更した(1927年終盤から)。後継者として会社を任されたのはウジェーヌ・クル(Eugène Cools 1936年まで)とジャン・マリエッティ(1977年まで)で、社は彼らの時代にLa Sirène musicale社(1940年)、他にもBrousson & Cie.、J. Vieu、G. Spork、P. Dupontといった出版社を吸収していった。マリエッティの妻であったシモーネが1987年まで会社の舵取りを行い、同年にデュランとアンフィオンに合併された。さらにサラベール社と合併してデュラン=サラベール=エシグとなる。同社は2007年からユニバーサル・ミュージック・パブリッシング・グループの参加に入っている。海外への配送はハル・レナード・コーポレーションが請け負っている[2]

Max Eschig & Cie.に最初に加わった作曲家はマヌエル・デ・ファリャであり、オペラ『はかなき人生』や『スペインの庭の夜』が持ち込まれた。ドゥメ社を合併したことにより、エシグはモーリス・ラヴェルの初期作品の一部(『亡き王女のためのパヴァーヌ』、『水の戯れ』、『』)の出版も行うようになっていた。20世紀初期の作曲家としては、アルテュール・オネゲルシャルル・ケクランダリウス・ミヨーフランシス・プーランクエリック・サティシャルル・トゥルヌミールアンリ・ソーゲの作品を多く手掛けた。また、スペインとラテンアメリカの作曲家からはイサーク・アルベニスレオ・ブローウェルエルネスト・アルフテルフェデリコ・モンポウホアキン・ニンホアキン・トゥリーナ、ヴィラ=ロボスらを取り扱った。中央、及び東ヨーロッパの作曲家でエシグが出版したのはボフスラフ・マルティヌーアレクサンデル・タンスマンカロル・シマノフスキである[3]。ユニバーサル・グループの一員として、エシグは現代フランス、並びに世界各地の作曲家の作品を刊行し続けている。

出典

編集
  1. ^ Tual, Francois-Gildas: "Eschig, Max", in: Die Musik in Geschichte und Gegenwart (MGG), biographical part, vol. 6 (Kassel: Bärenreiter, 2001), c. 471.
  2. ^ About Us – Durand Salabert Eschig”. 2022年11月3日閲覧。
  3. ^ History: Eschig – Durand Salabert Eschig”. 2022年11月3日閲覧。